2022年07月18日(月) |
ようやく洗濯物を片付けられた日。4回も洗濯機を廻してしまった。干す場所がもはやないくらい、洗えるものは次々洗った。もうそれだけで満足したくなるくらい、洗濯物に塗れた朝だった。 挿し枝した紫陽花は順調に新たな葉を茂らせてきている。灰かび病になったアメリカンブルーは今じゃもさもさに茂って元気だ。このアメリカンブルーと紫陽花が最もベランダで元気かもしれない。水やりをしながら、どうしたらこの暑すぎる毎日を緑が元気に越えてくれるだろうと思案する。肥料もやり過ぎれば毒になる。水だってやり過ぎれば毒になる。何でもそうだ、程度が過ぎればそれは、ただの毒にしかならない。
子どもの頃、適当という言葉が嫌いだった。「テキトーにやればいいじゃん!」と友人たちがけらけら笑う、その笑いが何処か嘲りを含んでいるように聴こえてならなかった。テキトーって何だよ、何をもってしてテキトーって言うんだよ、なんて、心の中で毒づいていた。適当にうまく立ち回ればいいんだよ、と言う先輩を、心の中で睨みつけたこともある。適当になんてやってられるか、いつだって本気で向かわなきゃ相手に失礼じゃないか、ふざけんな馬鹿野郎、と、そう思っていた。 いつだったろう、適度、という言葉に立ち止まったのは。適度、という言葉が心にひっかかったのは。もしあの時、適度、ではなく適当という言葉がそこで使われていたら、私はきっと、条件反射的に反発していたに違いない。 確か、恩師だった。あの時にかっと笑ったのは。おまえはほんと下手だな、もっとうまく立ち廻りゃいいのに。何処までいってもおまえは不器用だ。そう言って笑った。その直後、こう言ったんだ。物事には適度ってもんがあるんだ。 適度? 適度って何だ? まず私はそう思った。テキトーでも適当でもない。適度って何だ?と。でも、その場では先生に問い返せなかった。何となく、訊けなかった。 それからしばらくずっと、「適度」という言葉に拘った。何をするにも「これの適度って何処にあるんだろう」と考えた。そうしていた或る日、料理をしていて、ああ塩加減がちょうどよいかもしれない、と思った瞬間はっとした。ああこれが、適度、だ、と。 テキトーでも適当でもない。適度な匙加減、塩加減。私の「適度」がここにあった、と思った。薄すぎもせず、濃すぎもせず、おいしい塩加減。それが私の、適度な塩加減。おいしいと思える、ちょうどよい加減、それが、適度。私にとっての、適度。 そこからドミノ倒しの如くだだだだだっと、いろんなものの「適度」に気づいた。適度なやさしさ、適度なおせっかい、適度な。そう、いい加減、じゃなく、良い加減。それが私の「適度」。 それからだ。適当、でなく、適度、という言葉を意識的に用いるようになったのは。私にとってまさにその言葉は、ちょうど良い加減、だった。 適度に目覚めて、私はぐんと生き易くなった。テキトーや適当に惑わされなくなった。周囲がたとえ、テキトーや適当を使っていてもあまり気にならなくなった。まるで軸が見つかったかの如くだった。私の、ちょうどよい加減である適度な場所、適度な軸、適度な量、適度な速度。周りと合っていなくたっていい、私にとっての適度なそれが、私には大事なのだ、と。そう、納得した。
太陽が照り過ぎれば葉は乾く。風が強すぎれば葉は擦り傷だらけになる。雨が降り過ぎれば根腐れを起こすし葉も病気になる。そんなふうに、し過ぎればそれはもう、ただの毒。何にでも「適度」な分量ってもんがあるのだ。その適度な分量を、ちゃんと見つけてやる、気づいてやることが大事なのだ、と。 でもやっぱり、適度は理解できたが、テキトーや適当には反発を覚える。いい加減に、テキトーにこなしゃ、或る程度の結果は出せる。その程度には器用だ。が、テキトーにひとと向き合う、命と向き合うのは。私は、やっぱり嫌だ。 自ら嘲りを含む笑いをしなければならないような適当さは、私は要らない。不器用と何だろうと、自分がかつて、ちゃんと正面から向き合ってほしいと思った分だけ、相手とちゃんと真っ直ぐに向き合いたい。この歳になっても私は、それだけは譲れない。 |
|