2022年07月20日(水) |
雨の中昨日母の庭に行った。かぼすの樹に蝶々の幼虫がたんまりいると聞いて、息子がどうしても捕獲したいということで向かう。私達が電車に乗った頃はぱらぱらと小雨だったのが、降りた時には土砂降りで。こんな雨の中幼虫探しができるものなのかとはらはらだった。 しかし、捕獲したいという息子の熱意は冷めるどころかもはや執念になっており。傘を差しながら樹を覗き込む。私達が育てたことのあるアゲハの幼虫だけじゃなく、大丈夫なのか?と思う見たことのない幼虫もいて、「もし蛾だったらどうする?!」と私と息子顔を見合わせたものの、ここまできたらとりあえず持って帰れということだ、と結論に至る。次から次に息子の虫籠に幼虫を投入。最終的に何匹になったのかもはやふたりとも覚えていない。 と、その時、何気なくかぼすの樹の隣のツツジを見たら、蜂が巣作りをしているではないか。もうすでにある程度の大きさになっている蜂の巣。慌てて父を呼ぶ。ゆっくりと出て来た父の手には殺虫剤が握られており。「それでほんとに死ぬの?」「ま、大丈夫だ。山小屋でもいつもそうしてる」と。シャツ1枚で挑もうとするので、それはやめてくれ上着を着てくれと頼む。 何をするにもゆっくりな父。ああそうか、父はもう85だった。一挙手一投足、私がこれまで知っている父のようにはいかないのだ、と気づく。耳も左が遠くなり、左側から話しかけると返事がまったくもって、ない。 上着をひっかけて出直してきた父が殺虫剤を振り撒く。しかし、蜂たちも執拗に巣を守ろうと必死になっている。そんな蜂のテンポと父のテンポが真逆で、私はひやひやしてしまう。 「私がやるわ、ちょっと待ってて!」私はもう見ていられなくなって父を制し、とりあえず傘とそれからタオルを持ってツツジの前に立つ。プシャーッ!!!!!殺虫剤を勢いよく振りかける。しかし今は土砂降り中。私はこれでもかというくらいの勢いで殺虫剤を噴射。あの時私は何を思っていたんだろう。父が「もういいだろ?」と何度か言うまで、ひたすら噴射させ続けていた。
母の庭が何となく、草臥れているように見えた。夏だから? いや、もちろんそれもあるだろうが、それだけじゃない疲労感が漂っているように感じられる。だから母に何の気なしに「お母さんの庭、ちょっと草臥れてる?」と言ってしまった。母は即座に応える。「でしょう? 水やりだけでね、もう身体が続かないの」。 ああ。そうだよな、と、すぐに思った。父母の、ひとつひとつの仕草、身体の動かし方、その気配、ぐん、と変わった。電話や手紙でやりとりしていたのでは気づかない、気づけない、そういったことに今ここで気づく。 「ふたりだから何とかやってる。これが、どちらかが死んだら、残った方はどうなることやら。なぁ?」「そうそう。残された方がね、きっと大変ね」。
ふたりだから何とかやれてる。本当にそうなんだな、と、ふたりを見ていれば痛いほど分かる。私にとって父母は、ネグレクトと過干渉をくれた親であり、被害を告白した時は嘘つき呼ばわりした人間たちであり、一時期絶縁もしていたことのあるひとたちだけれど、でも、このふたりは本当に、お互いにはやさしい。どこまでも労わり合いながら寄り添って在る。これがこのふたりの夫婦のカタチなのだな、と、今なら分かる。 帰り、駅まで車で送ってもらう。ゆっくりと走る車も、父母によりそって在る気がする。結局、この日雨は暗くなるまで降っていた。 |
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