ささやかな日々

DiaryINDEXpastwill HOME


2022年08月08日(月) 
ぼんやりと夜が明ける。朝が来る。強い風が吹き抜けてゆく。ベランダに立っているとうなじの後れ毛が風に嬲られる。
寝るタイミングをうまく掴めないままの日が続いている。椅子でならいつでもうとうとできるのに、横になるという行為ができない。

昔友から聞かされたことがある。近親姦の被害に遭い続けた子からの話。真っ暗闇の中息を潜めてじっとしている方が落ち着く、と。下手に豆電球などがついていると、恐ろしい、と。また手が伸びてきて被害に遭うんじゃないか、と、それが怖いんだ、と。真っ暗闇の中なら、もしかしたら見つからないでいられるかもしれないって思えるんだ、と。
彼女のその時の声はこれでもかというくらい切実で、だから痛かった。たまらなかった。私には到底計り知れない痛みがそこにあった。
私は逆で、豆電球でもいいから微かにでいいから小さくていいから、ひとつでいいから、明かりがついていてくれないと恐ろしい。できるなら煌々と明かりをつけっぱなしにしておきたい、朝まで。横にならずに済むように、何処までも煌々と明かりをつけっぱなしにしておきたい、と。そう話した。彼女とふたり、「真逆だねぇ!」と大笑いしたのを覚えている。
同じ性被害でも、その被害が起こった状況や時、関係、そういった様々な事柄によって、その後の有様は180度異なって来るんだな、と、その時改めて思った。
そういう意味で、同じ被害、なんて、何処にもない。

犯罪被害者、と言うだけで「え?!」と引かれるのが常だけれど、さらにそこに「性」がつくと、みな黙り込んでしまうのはあれは何故なの。別に何も特別なことじゃないじゃないか。性被害、これでもかってほどあるのに。まるで、「犯罪被害の中でも性被害は特別、特殊」といわんばかりの勢いじゃないか。そんなのって、おかしくないか?
性は決して特別じゃぁない。特別じゃないからこそ、大事に扱わなければならない。私はそう思っている。当たり前のものほど、当たり前にそこにあるものほど、大切に扱わなければならない、と。
私が、自分は性犯罪被害者だ、と口にするようになったのはもう二十数年前のことだけれど、当時は今よりももっと、嫌悪された。性犯罪被害者?!なにそれ?!といわんばかりの勢いで、下手すればこちらの口を抑えにかかる人もいたくらいだった。そういう輩にとっては、どこまでいっても「性」は、「性被害」は、特別、特殊。特別な人間がなるもの、特殊な立場の人間だけがなるもの、みたいな。冗談じゃない、誰だってこの直後被害者になり得る可能性を持っているってのに。

実家まで、息子と私とそれぞれに自転車に乗って出かけた数日前。無事往復できたことで自信を持ったのだろう、今日私の仕事場に出掛けるのも何の躊躇いもなく自転車に跨り走り出した息子。その背中を見ていて、こうやって子供はひとつずつ自信をつけてゆくものなのだなと実感。
親には計り知れない、子供にしか味わえない未知の領域なるもの。彼らにとっての未知の領域は、だから、こちらがどう想像を巡らしても足りることはなく。彼らには彼らの世界の拡がり方があるのだと、改めて思い知らされる。私には私の世界があるように、彼には彼の世界がすでにあるのだ。大事な、こと。
私が普通に走って約40分の道程を、彼とふたり、二台の自転車で初めて走って一時間強かかった。でも走り切った時のあの彼の顔ったら。まさににかーっと満面の笑顔だった。ああこんな顔久しぶりに見るなぁとちょっと眩しくなったほど。彼が自信をつける瞬間に立ち会うことができて、私はラッキーなんだな。

それにしても。暑い。夜でも蒸している。汗が止まらない。


浅岡忍 HOMEMAIL

My追加