Shigehisa Hashimoto の偏見日記
塵も積もれば・・・かな?それまでこれから


2002年10月26日(土) セリフの宝箱

美しいものを見たとき、人はそれをどんな言葉で表現するか。のっけからこんなことを言っては身も蓋もないが「きれい」とか「美しい」とか、それなりにだろう。

この感情表現は内的に芽生えた心情を素直に出しているだけだから何ら問題ない。しかし、これがドラマや映画の中のセリフだったとしたら話は別である。美しいものを単純に「美しい」と言うだけでは作劇方法として失格である。セリフが脚本家の世界で完結してしまって、第3者との間に隔たりを作ってしまうからである。こういう類のセリフでは作品を極めて表面的なよそよそしい解釈しか出来なくなる。これを避けるために書き手は美しいものが何故「美しい」かを映像の出来如何に関わらず客観的に、しかもうそ臭くなく表現しなければならないのだ。では、具体的にはどうあるべきなのか。漫画ではあるが心情表現が突出して成功したものを紹介したい。「美味しんぼ」11巻に収録されている「真夏の氷」という話である。以下、簡単なあらすじ。

主人公・山岡士郎と栗田ゆう子は同僚を連れ立ってとあるバーに趣く。そのバーは山岡の馴染みの店で、美味しい水を探すことに心血を注いでおりその厳選された水で作った水割りは言いも知れぬ味を醸し出すのであった。一同は大満足するがマスターの顔がさえない。聞くと、なんとこの店を今日いっぱいで閉めるというのだ。地下水の汚染などによって良い水を手に入れるのが難しくなったのが原因で、最早美味しい水割りを出すことが出来なくなったのだ。閉店祝いにと大切にとっておいた南極の氷をとかした水で酒を作り、乾杯する一同。店を出た後、同僚の1人が「楽しい思いをしたのか悲しい思いをしたのか解らない」と呟く。しかし栗田は決然と「いいえ、私は楽しい思いをしたと思います」と言い放つのであった。

長年水の素晴らしさを身を持って呈し続けた店の閉店だから事象そのものは悲しいことである。しかし栗田は「楽しかった」と述懐する。悲しいことをあえて「楽しかった」と表現することで物語の悲劇性がより一層あぶり出されてくる。栗田は本当に楽しい思いをしたのかもしれない。だが、楽しさと悲しさの間で栗田の心が激しく振幅しているのは明らかである。ここでの栗田の感情は簡単に説明して断ずることが出来ない。心理のひだに多面な感情が見え隠れして何とも言えない味わいを残す。セリフに情感がこもって出色の余韻たなびくラストシーンになっている。そして作品解釈の多層性を見事に生み出すことに成功している。

転じて、昨今のドラマはどうか。大体にして、セリフに想像力を働かす余地がないものが多いように思われる。それは話を分かりやすくする、という点では意味を為しえているが、一方で作品の深みや多元性を創り出すことは出来ない。あるいは思っていることを全てセリフにしてしまったり、ナレーションであからさまに心情を説明してしまう稚拙な作品もよく目立つ。登場人物の感情から行動、所作・挙動まで全てセリフ・ナレーションで処理してしまう橋田寿賀子の晩歌「渡る世間は鬼ばかり」などがこれに当てはまる。商業的締め付けの多いTVドラマ業界では高望みすることは出来ないのかもしれないが、それでもぎりぎりのところで作家はもっと奮闘するべきである。衰退著しいドラマ界が再び活力を取り戻すためにはこれ以外に方法はないはずである。

今日は午後に山田太一の新作ドラマが放映されたのでビデオに録画しておいた。山田のシナリオはとっかかりの発想の妙と議論的セリフの応酬が魅力である。今の脚本家とは違う、「本格派」の味わい深いセリフを楽しみにしつつ、今日は眠りに就きたい。


橋本繁久

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