Shigehisa Hashimoto の偏見日記
塵も積もれば・・・かな?|それまで|これから
2003年03月03日(月) |
舞い戻ってテレビの話をしよう |
前回と同じく、録画したり、レンタルして視聴したテレビ作品の感想。
○シャーロック・ホームズの冒険 「這う人」
★推理物+サスペンス・ホラー+SFの怪作
文学的な薫り高いサブタイトルとは裏腹に、これまでの作品群とは趣きを異にする異色作である。「這う人」の正体が活力剤代わりにサルの血液を注射したプレスベリィ教授その人であるあたりは現実の常識的世界観を大きく逸脱して、サイエンス・フィクションの域にまで跳躍してしまっている。厳密かつ公正なミステリーマニアの方にはここらへんが納得できない部分であろうが、ウルトラマンシリーズ等ですでに虚構のSFマインドを十二分に頭にしみこませている筆者にとっては大いに楽しめる作品であった。
それにしても、半猿人化したプレスベリィ教授役の俳優の迫真の演技は賞賛に値すると言ってもよいだろう。「人間がサルになったときの演技」という突拍子もない難題を、柔軟な想像力で勝負した結果、見事に「それらしい動き」を体現することに成功していた。本作品の中でも一際光る、体当たりの名シーンであると言える。
○タイムパトロール隊 オタスケマン「オタスケマン大ピンチ」
★ラスト2回で謎解き
「オタスケマン」に限らず、タイムボカンシリーズは最終回が近づくと今まで張っておいた伏線を一気にまとめ上げる、という傾向がある。「タイムボカン」然り、「ヤッターマン」然り。唯一の例外が「イッパツマン」で、この作品は謎を小出しにして、しかも少しずつ解き明かしていくという手法をとった。連続劇としては後者のストーリー展開の方が優れていると言えるだろう。だが、本シリーズのメイン視聴者には未就学児童も確実に含まれているわけで、あまりストーリーラインを複雑にすると低年齢層はついていけなくなってしまう恐れがある。事実「イッパツマン」は物語が難解だという種類の苦情がきたそうである。難しいところだが、そのギリギリの線を上手くかいくぐったケースもあった。それがこれから紹介する「オタスケマン」である。
最初に書いたとおり、この作品の決着のつけ方は「ヤッターマン」方式である。それでは結末までドタバタして収集がつかない気もするが「オタスケマン」の場合、散りばめられた謎がスリム化されたものだったので視聴者側も混乱することなく番組に望めることができた。すなわち、オタスケマンの正体、オジャママンの正体を登場人物達の大きなテーマとしておきながら、視聴者にはその答えをあらかじめ明かしておき、その上で、オジャママンのボス・トンマノマントの正体、そしてゲキガスキー登場の必然性を受け手側の最大の謎として据えたのである。従って、視聴者は劇中の登場人物よりもひとつ上の段階で物語を俯瞰することができ、それがある種の安心感を与えることに成功している。そして全ての謎を収束させる作業に入るのが最終前話の「オタスケマン大ピンチ」と最終回の「輝け!世界のオタスケマン」の2回なのである。これによって視聴者を最大の興味で引っぱりつつ、基本的には一話完結の単純明快なストーリーを作り上げることが出来た。幼稚園児から小学校高学年ぐらいまでは、充分鑑賞に堪えうる作品になりえたのである。
○チャーリーズ・エンジェル
★突き抜けた「古きよき時代」
前々から観たかった作品なので視聴する機会を得ることが出来てうれしいことこの上なし。初めて観てみて思ったことは「雰囲気がよい」ということ。ホームズやコロンボのように事件の解決方法が鮮やかなわけでもなく、また、濃厚な人間ドラマが展開されるわけでもない。ただお色気たっぷりのお姉ちゃんたちが刑事まがいのことをやっているだけのドラマである。だが、逆にいえばそこがこの作品の最大のセールスポイント、売りなのである。余裕綽々のチャーリーに、これまた軽妙な受け返しをするエンジェル達の人間的な魅力といったらない。つまり各人の会話がほとんど冗談の延長のような趣きで、視聴者に「こんな洒落たことが言えたらなあ」という夢を抱かせるのである。しがない現実に疲れた人たちに、夢を売ることがドラマの使命だとするのならば、この作品ほど優れたものはそう簡単には見つからないだろう。底抜けの明るさを備えた(と言ってもほのぼのしているわけではない)、娯楽ドラマとしては一級品である。
ところで、筆者はドラマの雰囲気からして、当初、この作品は60年代に作られたものだと信じていた。ところが、色々調べてみると76年から81年までに放映されたドラマだと分かった(日本での放送はこれに若干のタイムラグがある)。アメリカの古きよき1960年代はとうに過ぎ去っていたである。それなのに60年代の優雅な匂いが消えないのはどうしてなのか。もしかしたらこの番組のスタッフは60年代に憧れていたのかもしれない。70年代から見た空想としての60年代が、そこには確かに存在しているのだ。
橋本繁久
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