Shigehisa Hashimoto の偏見日記
塵も積もれば・・・かな?それまでこれから


2003年03月07日(金) しつこくテレビの話をしよう

シャーロック・ホームズの冒険 「瀕死の探偵」

★ハイレベルな役者達

シリーズのフォーマットに忠実な作品である。良くも悪くも標準作の域を出ないが、細かな部分で色々と楽しめる。犯人の疑いが強いカルパートンに対してホームズが「嫌なやつだが犯人ではない」と言ってみたり、夫人の言動にいささか怪しいとみれる箇所があるところから筆者は今回は何か裏があるに違いないと勘繰ったが、思い違いもはなはだしく、結末は大凡の予想通りであった。

さて、今回の白眉を探すとすれば、真っ先に熱病に罹患した”フリ”をするホームズの怪演が思いつくであろう。苦しみ、悶えつつもカルパートンと必死にやり取りする様はまさに圧巻。仮病というシチュエーションはともするとうそ臭くなりがちだが、ジェレミーの密度の高い演技により、その後の逆転劇とあわせて爽快感溢れるシーンに昇華されている。

それにしても、ジェレミーの確かな演技設計にはいつもながら唸らされる。緩慢な動きから一転、俊敏な手さばき、かと思えばまたゆったりとした物腰にもどる。静から動、動から静への切り返しが鮮やかで、極めてメリハリの効いた挙手動作は視聴者を確実に魅了する。ジェレミーあってこその「シャーロック・ホームズの冒険」なのは言わずもがなである。本番組のスタッフが原作を可能な限り忠実に再現しようとした態度の誠実さと同じくらい、彼のホームズ役への取り組みは誠実であった。無論、彼だけではない。初代ワトソンにしろ、二代目ワトソンにしろ、あるいはハドソン夫人、そして毎回登場するゲストに至るまで、この番組に出演する俳優たちは皆ハイレベルな演技を要求され、そしてそれに見事応えている。キャスト面においてもこのシリーズは恵まれていたのだ。

あまり比較はしたくないのだが、残念なことに日本の役者で現在これほどの力量を持つ人材はいない。少しでも人気が落ちればポイ捨てという日本のシステムにも問題があるが、いわゆる「役者根性」を持つ人間が本当に少ないのも悲惨だ。昨今の日本ドラマが軒並み不振なのは、人を引き付け、酔わせる演技のできる役者がいないところにも起因していると言えよう。

話が脱線してしまったが、もうひとつ、この作品で発見した面白い事実を記して結びとしたい。冒頭、久方ぶりにホームズを訪れたワトソン(いつのまにかワトソンはホームズと別居している。この経緯に関しては何も描かれていないのでいささか疑問が残る)に対してホームズは「新しいネクタイの感想を求めないでくれよ」と素っ気無く言う。ワトソンは「友達がいのないやつだな」と返すが、言葉とは裏腹にこのセリフにはワトソンのホームズに対する深い友情が溢れているのが見え隠れする。ところが、一方のホームズはどうか。カルパートンを罠にかける際、ホームズはワトソンやハドソンまでも欺いている。勿論、事件解決を潤滑に執り行うためであるが、そうであるにしても、ホームズは「友情」を捨て己の生業を貫徹することを選んだのである。これはホームズが冷酷な人間であるからというよりは、ホームズとワトソンの友情に対する考え方の差異が示されただけの話であろう。ワトソンが意味する友情が世間一般のものと大差ないのに比べて、ホームズのそれはあくまで自分側の論理に準じているのである。「友情」という概念をキーワードにして、愛すべき凡人ワトソンと偉大なる天才ホームズの本質的な人間性の違いが如実に表れてくるのは非常に興味深い。この2人が手を組んだからこそ、本番組は無類の味わいを発揮する名ドラマとなりえたのである。

帰ってきたウルトラマン 「大怪鳥テロチルスの謎」「怪鳥テロチルス 東京大空爆」

★ウルトラマンに青春ドラマ、結果は?

「帰ってきたウルトラマン」はドラマトゥルギーとしての”葛藤”を強く前面に押し出した作品である。郷と岸田の争いにしろ、MATと上層部の軋轢にしろ、登場人物たちは毎回激しくぶつかり合い、議論し、時には傷つけあう。その陰々とした苦しみのなかで一筋の光明を見つけたとき、ドラマは終局に向かって歩き始める。対立の解消が即、ドラマの終劇に結びつくのである。勿論、エピソードの全てがこの形式を採っているわけではないが、ジレンマとその消失は「帰ってきたウルトラマン」を語る上で避けては通れない重要なファクターであることは間違いない。今回紹介する話も基本的にはこの方法論にのっとって構成されている。だが、基本フォーマットに忠実にあるのに関わらず、本話は相当な異色作である。その所以は本話の”葛藤”の表現を青春物語に託している点にある。子供向け、しかも特撮番組に青春ドラマという特異な組み合わせ。果たして成功したのであろうか。エピソードを順を追って紹介してみよう。なお、本話は「夜明けの停車場」などで有名な歌手・石橋正次が恋人の裏切りを妬んだテロリスト役でゲスト出演している。世の中を斜めに見るような石橋の好演は視聴者を確実にドラマの世界へと引き込む。それにしても、子供番組にこのような有名芸能人が出演するあたり、ジャリ番とは言え円谷のキャスティングに手抜きは全くない。今となっては完全な死語となってしまった「ドラマのTBS」の面目躍如である。


―ある夜、若者達がヨット上でパーティーを開いていた。そこに忍び寄る影、刹那、ヨットは爆発炎上する。すぐさま捜査が開始され、ヨットの乗員の1人由紀子の幼なじみである松本三郎に嫌疑がかかる。由紀子は三郎を捨て、大会社の御曹司の浩と婚約していた。警察はそれを妬んでの犯行であると断定する。事実、三郎はヨットの船体にダイナマイトを仕掛けていたのだ。ところが、由紀子はヨット爆破の真犯人は爆破の寸前に飛来した怪獣であると証言、MATに調査を依頼する。

時同じくして、真夏の東京に雪のような物質が降る。排気ガスと感応して失明性のある猛毒ガスを発生させるこの物質を解析するため、郷は気流をさかのぼって調査する。物質の出どころを突き止めると、そこには大怪鳥テロチルスがひそんでいた。テロチルスは音に敏感に反応する習性を持つ。ヨットを襲撃したのも、ヨットの発動機にテロチルスが刺激されてのことだったのだ。郷はウルトラマンに変身してテロチルスとの戦闘に入る。だが決着はつかなかった。

一方、服役中の三郎が脱獄したとの連絡が入る。再び自分を付け狙うのではと恐れる由紀子は郷にずっとそばにいて欲しいと懇願する。その始終を郷の恋人・坂田アキが見てしまう。

三郎は警備の目をかいくぐって由紀子が入院する病院に侵入、由紀子を奪って逃走する。逃げた先はテロチルスが吐いた物質によってマンションに張らされた巨大な巣であった。三郎は由紀子を連れてマンションの一室に立てこもる。程なくしてテロチルスも巣の中に入る。由紀子がいることと、下手に刺激するとテロチルスが暴れ出す恐れがあることから、MATも警察もうかつに手を出すことが出来ない。

三郎は浩と引き換えに人質の解放を約束するが保身に走る浩は逃げ出してしまう。その事実を知った由紀子は愕然とする。2人はなんとはなく昔の思い出話を始める。その過程の中で由紀子は自分が必要とするのが三郎であることにやっと気づく。愛を確かめ合う2人。三郎は自首することを決め、ベランダに1人で出てくる。ところが焦った警察は三郎に発砲してしまう。その音を聞いてテロチルスは凶暴化して暴れ始める。崩れ落ちるマンション。三郎は由紀子をかばって瓦礫の下敷きになってしまう。

郷は再びウルトラマンに変身してテロチルスに挑む。ウルトラマンは辛くもテロチルスに勝利するが三郎はすでに帰らぬ人となっていた。

何日かの後、三郎の墓前に由紀子と郷とアキの3人がたたずんでいた。由紀子は郷に三郎の分も含めてやり直すことをと誓い、静かに去っていった―


三郎と由紀子の微妙な関係を軸に、由紀子と浩、由紀子と郷、そして郷とアキの気持ちのすれ違いを丁寧に描き、それらを覆い被せるようにテロチルスのエピソードが重なってくる。ドラマパートと特撮パートが決して乖離することはなく、むしろ双方がお互いを盛り上げる最良の結果となっている。低年齢層には若干わかりづらい点もあっただろうが、概括的に見れば青春ドラマとしてのウルトラマンは大成功であったと言えるだろう。本作のテーマである「噛みあわなかった愛の悲劇」の雰囲気は存分に画面に滲み出ていた。浩の由紀子に対する愛は所詮うわべだけのものであったのに対して、三郎は自分の命を投げ打ってでも由紀子を守ろうとした。由紀子を真に愛していたのは三郎であり、由紀子もそれに応えた。たとえほんの僅かな時間であっても愛を勝ち取った三郎は幸せであったといえないか。上原正三がこのエピソードを通して語りたかったのはまさにこの部分であるはずだ。三郎と由紀子はその面では報われていた恋人だったのだ。

そしてラスト、由紀子を見送ったあと、アキは「私も初めからやり直すわ」と言って微笑む。アキの、郷に対する誤解もすでに解けているのだ。画面の四隅に赤い花を配し、その合間を縫うように手前に向かって2人が仲睦まじく歩いてくるショットは、爽やかな恋人達に相応しい清新な余韻を残す素晴らしいシーンとなっている。もっとも、この後2人に起こる悲劇を知っていると、このシーンは心苦しいことこの上ないのだが(郷とアキの顛末については拙文3月1日付け『一年以上ぶりにテレビの話をしよう』を参照のこと)・・・・

ともあれ「青春ウルトラマン」、見ごたえたっぷりの良作であった。


橋本繁久

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