Shigehisa Hashimoto の偏見日記
塵も積もれば・・・かな?|それまで|これから
2003年11月18日(火) |
ある愚者による、さくらももこに関する覚書 |
まず始めに言葉が優れていた。 漫画よりも言葉が先行し、言葉は漫画を包み込んだ。 だからこそ斬新で、かつ面白かった。
1〜6巻までの「ちびまるこちゃん」は良かった。 「もものかんづめ」はもっと良かった。 「さるのこしかけ」は「もものかんづめ」と同じぐらい良かった。 「たいのおかしら」は「もものかんづめ」と「さるのこしかけ」よりは少し良くなかった。 「あのころ」は「たいのおかしら」よりもう少し良くなかった。 「まるこだった」と「ももこのはなし」は「あのころ」よりさらに良くなかった。 「そういうふうにできている」は「まるこだった」と「ももこのはなし」と同じくらい良くなかった。 「さくらびより」は確実に悪かった。 「富士山」は最悪だった。 「ももこの宝石手帳」でこの作家はもうダメだと思った。 「世界あっちこっちめぐり」は途中で読むのをやめた。
「ほのぼの劇場」が好きだった。 「盲腸の朝」には笑わされた。 「あこがれの鼻血」には感嘆した。 「ひとりで勝手に運動会」というタイトルに脱帽した。 「教えてやるんだ ありがたく思え!」はとても19歳の女性が書いた作品には見えなかった。 「みつあみのころ」「ひとりになった日」「手をつなごう」「夏の色も見えない」といった感傷的な作品にも胸を揺さぶられた。 しかし「ちびまるこちゃん」の7巻から「ほのぼの劇場」が収録されなくなった。 だから7巻は以前よりも面白味が減った。 8巻には「ほのぼの劇場」が入っていたが、前のものよりも完成度が高くなかった。 9巻は8巻よりももう少し面白くなくなった。 10巻はもっと面白くなくなった。 11巻はさらに面白くなかった。 12巻ぐらいになるとついにヒロシの性格が悪くなってきた。 13巻では明らかに作風が変わり、私の大嫌いな野口、小杉、山根、永沢といったエキセントリックなキャラクターが幅を利かすようになった。 14巻ではこの「招かざる客」がますますでしゃばり、いい加減愛想が尽きたと思ったらこの巻で「ちびまるこちゃん」は一端休止となった。 その後「富士山」などでちょくちょく新作が発表されたが、漫画の出来には溜め息をつかざるをえなかった。 去年6年ぶりに15巻が発売されたが、私がこの本をレジに持ってゆくことはなかった。
「ちびまるこちゃん」が大ブームの頃、私はまぎれもなくさくらももこの熱烈なるファンだった。 前述の通り単行本は全て買い揃えた。 テレビアニメも食い入るように観た。 「おどるぽんぽこりん」を歌いまくった。 映画化された折には真っ先に劇場へと足を滑らせた。 冨田靖子主演の自伝的ドラマも必死になって見た。 さくら自身が脚本を書いたドラマも観た。 とにかく彼女は時代の寵児だった。 そして私も彼女を大いに支援した。
ところが「まるこ」が二度目のアニメ化を果たした頃から様子がおかしくなってきた。 漫画がつまらなくなった。 アニメもつまらなくなった。 魅力だった独特のエッセイ調の文体が後退して、キャラクターに依存する傾向が強くなった。 アニメで友蔵役を務めた富山敬氏が亡くなり、青野武氏があとを引き継いだあたりから(青野氏には何の責任もないが)いよいよどうしようもなくなってきた。 頼みの綱のエッセイ文集も、庶民感覚が欠落した、ひどく出来の悪いものとなった。
この間さくらももこは出産して、さらに離婚した。 それが彼女の内面にどのような影響を与えたのか、ずぶの素人である私に知る由もないが、少なくとも作家としての輝きが薄れてきたのは明らかだった。 彼女の著作に目を通す機会は減った。 私の熱意も随分と冷めた。
それからさらに幾年かが過ぎた。 さくらももこが最近再婚したと聞いた。 だが、今の私にとってはあまり重要性のないニュースだった。 最早彼女には何の期待もしておらず、せいぜいこうして日記のネタに使う程度の関心しか持てなくなった。 私のなかで「さくらももこ」は完全に過去のものとなり、どうでもよい存在になった。 一時の栄華が、今やひときれの灰塵と化したのだ。 「過ぎにし栄光は、その空しさだけを持って現代に生き残る。浮かんでは消え、消えては浮かんでゆく、寂しいピエロの夢のように。」
橋本繁久
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