Shigehisa Hashimoto の偏見日記
塵も積もれば・・・かな?それまでこれから


2004年03月13日(土) 唯一無二の時間

私はスタジオジブリが制作した映画はほぼ余すこと無く好きである。その中でも昨日日本テレビで放送された「耳をすませば」が格別に好きである。初めて見たときはなんて作品だと思った。この妙な感覚はなんだろう。左足の付け根の裏の、角質の中心に位置する1センチ四方の上皮を待ち針でツンツンとつつかれた様な、或いは鼻の上の吹き出物の、特に赤くなっている火災警報器のボタンのような突起物をつまよう枝で玩ばれたような、または背中の肩甲骨よりやや下あたりの、例えるなら川の支流と支流が重なって本流に合するライン上の一部分みたいなところを孫の手の先っちょで少しだけ触られた様な、そんなような何ともむずがゆくなる気持ちを抱かせるのである。しかしそれだけではないのだ。同時に雫と聖司に対して実に暖かい共感の嬉しさがこみ上げてくるのである。いや、このさい共感などという生ぬるい表現では飽き足らない。むしろ二人を影ながら偲んで偲んで偲び入って見守りたいと思った。いや、むしろ「雫・聖司純情後援会」を結成して彼らを表から裏から強力にバックアップしたいと思った。いや、むしろ原作者の柊あおいさんの事務所に押しかけて、続編の要望とその展開を直談判したいと思った(むろん、比喩法ではありますが)。私はそれほどまでにこの映画が好きであり、その気持ちは今回の放送でさらに高まったようである。

「熟慮断行」という言葉がある。よく考えた後、思い切ってやってみる、という意味である。私はこの「熟慮断行」こそ、この映画の深層に密やかと横たわって、静かにしかし力強くテーマを支える髄のような存在だと思っている。よく若さの特権として「失敗を恐れず行動できる」ということをあげる人がいるが、個人的にそれは間違っていると思っている。若い時だって失敗は嫌だ。失敗は想像力を駆使してなるべく避けなければならない。順風満帆平穏無事に過ごせるのならそれに越したことはない。これは若かろうと年をとろうと同じコトである。しかし、青春時代には精一杯迷った結果、試しにやってみるということが可能である。これは一定年齢を超えた人には出来ない。立場と言うものがあるから、熟慮は出来ても断行ができないのである。何とはなしに生きてきた雫が恋人に触発されて起こした行動は、まさに「熟慮断行」の賜物であり、その結果「もっと勉強しなければ」というもともとの命題に舞い戻ることになるのだが、これは思想的に後退したことを意味するのではない。雫にとっての「勉強」というテーマが、より一層の意味と重要性を得て、力強く甦った証しなのである。しかも、今度の場合は社会的・精神的に上位自我に属する聖司という目指すべき目標がある。青春期における、自分でも持て余してしまうようなエネルギーを傾ける場所が、確固たるイメージを持って雫の内部に存在するのである。これぞ熟慮断行の末の獲得であり、これぞ青春時代だけの栄光である。よくこの映画を指して「クサイ」だの「恥ずかしい」だのと批判の声を荒げる人がいるが、ならば逆に聞きたい。全く恥ずかしくない青春時代などあるのか。程度の違いこそあれ、誰でも雫や聖司のような、あとから考えてみると顔が火炎放射器化してしまう経験はあるはずである。ただ、彼らが普通の人がなかなかやらない熟慮断行を実践して見せたのがやや珍しいことではあるが、これだってその気になればできないことではない。悩んだ末に飛べ、考えた挙句に跳べ、と製作者は今まさに思春期を過ごす少年少女達を挑発しているのである。聖司と雫の、危うく脆く、弱々しく軽率で勘違いはなはだしく、一人合点の早合点で自意識過剰のこんこんちき、という弱点は、そのままひっくり返して彼らの魅力でもあり、それは一時期の人間のみが特別に与えられる大変貴重なものだ。その一瞬の光を精一杯に輝かせてほしい。これが若くして亡くなられた、本作品監督・近藤善文さんの心からのメッセージだったに違いない。


橋本繁久

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