Shigehisa Hashimoto の偏見日記
塵も積もれば・・・かな?|それまで|これから
2004年03月15日(月) |
対話式:私家版「耳をすませば」論評 |
先日の木曜、僕は東京のフランス料理店「バキシム・ド・モンマルトル」でとある女友達と会食していた。彼女は台湾在住で(日本人だけど)、現地会社から久しぶりに長期休暇の辞令が下ったのをこれ幸いにと、1週間ほど前から日本に遊びに来ていたのだ。折角日本に帰ってきたのですから日本料理はいかがですか、と僕は提案してみた。だが、彼女は米は台湾でも嫌になるほど食べる、どうせなら普段お目にかかれないものを食べたいと言い張るので、僕が知っている唯一の西洋料理屋を紹介する羽目になった。僕は内心がっかりした。日本料理のいい店に自信を持っていたからである。しかし、運ばれてくる料理はやはり素晴らしく、場の雰囲気は何とも華々しくなった。こうなってくると当然、おしゃべりのほうも自然とたけなわになる。僕たちはあれやこれやと口を動かした。会話の内容は、ちょっと前の対中国円借款の停止に始まり、政治家の悪口を経由して、今や最近観た映画の話になっている。女友達はふと思い出したような微笑み顔を造り、こう訊いてきた。
「そうそう、この間テレビで『耳をすませば』放送してましたわね。ご覧になりました?」
これを聞いた僕の心内に、何やら熱いものが流れたような感覚が走った。「耳をすませば」は大好きな映画のひとつなのである。僕ははやる気持ちを抑えつつ、努めて冷静な風を装って、しかしやや威張った口調で応えた。
「ええ、もちろん観ましたよ。と言っても初見ではないですけどね」
すると彼女はにっこり笑って言った。
「それじゃあ、ちょうどいいわ」 「何がですか?」 「実はね、私、この作品観たの初めてだったんです。それでね、全体的にはとても面白くって満足したんですけど、枝葉末節に納得できないところがあるんですの」
映画に限らず、絵画や音楽などの固有のある芸術作品を好む者が、逆に嫌う者と対峙した場合、何とかその人が抱いている”嫌”の暗雲を吹き飛ばし、あわよくば”好”の風を送り込みたい、と考えるのは自然な成り行きである。ましてこの友達は嫌っているわけではなく、ただ疑問点を払拭したいだけなのだ。僕の頑張り次第で、彼女は「耳をすませば」の愛好家に転換する素質を秘めているのである。これはなかなか責任重大だ。
「ほう・・・具体的にどんなところですか」 「例えばあのラストシーン。朝もやの中で若い二人が新たな希望に燃える構図はとても素晴らしいと思うけど、『結婚しよう』なんてセリフはおかしいでしょう。せっかく思春期の純真な淡い恋を描いてきたのに、あれじゃあ興ざめだと思いませんか」
うーん・・・と僕は唸ってしまった。こういう考え方もあるのか。しかし僕にとってはあの展開に問題はないと思っていたので恐る恐る自説を述べてみた。
「あの年代の子は一体に背伸びをしたがるものですよ。特に主人公達には目標があるわけですし。精神的に駆け上がってゆくような感覚の時って妙に大人ぶりたいものじゃないかなあ。思うに、『結婚』という言葉を口にすることによって気持ちを高揚させているんですね」 「そんなものですかねえ」
相手はわかったようなわからないような表情を浮かべつつ、次の疑問点に議論の場を移した。
「それからお父さん役の声優、そう、立花隆ですね。あの人の吹き替えがとても下手だと思いましたわ。抑揚に乏しいし、画の動きとセリフがあってないし、あれは完全なミスキャストでしたわね。ジブリってどうして素人をああも使いたがるのかしら」
これまた僕の考えとは180度違った見解である。どうやら彼女の疑念はなかなか強固で難攻のようだ。どこから切り崩してゆくべきか、表現ひとつで彼女の受け取る印象は変わるだけに、こちらも腕の見せがいがある。もっとも上手く成功するとはひとかけらも思わないが。
「いやいや、あの朴訥な声が主人公を影で支える実直さと包容力を自然と表現していて素晴らしかったじゃないですか。立花氏を起用した狙いは”演技”などというものとは別なところにあると思いますよ」
こう答えると、彼女はちょっと不思議そうな表情を浮かべた。僕は言葉を続ける。
「笠智衆さんているでしょう、俳優の。あの人は決して上手い役者じゃないですよね。セリフにもかなり訛りがある。でも、彼には存在感という絶大なる魅力があるんですよ。あの人が映っているだけで、何とも言えない味わいが画面に滲み出てくるんです。そういう存在感の前では演技などというかったるい概念はたちまちにして蹴散らされてしまう。立花さんについても仕組みは同じです。例え棒読みであっても、いや棒読みであるからこそ、不器用なほど真面目でやさしい性格である父親の心性をどんな演技派よりも的確に表現できる・・・製作スタッフはそのように踏んでいたのではないでしょうか」 「それじゃあ、あのキャスティングは話題性を振り撒くための戦略ではなかったの?」 「違うと思いますよ。宮崎さんにしろ、高畑さんにしろ、スタジオジブリの監督は、実体感の乏しい、いわゆるアニメ声を嫌っているようですね。僕も最近の声優は甲高い声と存在感の希薄な人ばかりだと思っていますもの。」 「それは確かにそうですわね」
彼女はちょっと感心したような顔つきをしてみせた。これはいい調子だ。このままいけば彼女が乗っている「耳疑丸」は転覆するだろう。そこに僕の「耳好丸」が現れれば、彼女はためらいなく「耳疑丸」から飛び降りて「耳好丸」の乗務員へと乗り換えるに違いない。僕は思わずフライングして勝利の喜びに浸った。しかし女友達はにこやかな顔立ちから、ハッと気付いたような表情になり、これだけは訊かなきゃ、という口調で喋った。
「でもね、これは根本的な問題なんですけど、そもそもあの内容をわざわざアニメでやる必要はあったのかしら。だって、アニメーションは想像力にあふれた世界や、滑らかな動きを楽しむものでしょう?私なら実写でとるのが普通の流れだと思うんですけど」
ついにこの質問がきたか、と思った。というのも、僕は以前これと同種の批判を挙げた批評文を読んだことがあるのだ。ここは慎重にゆかねばならぬ。僕はゆっくりと口を開いた。
「そういう意見はよく聞きますね。でも、あれを実写でやるとちょっとおかしくなっちゃうんじゃないかなあ。中学生であれほど瑞々しい雰囲気を出せる人はいないでしょう。それに、あの映画の魅力である透明感のある風景を果たして実写で描けるかどうか。だいたい、題材からしてとても照れくさい作品ですから、実写だとどうしても嘘や誇張、矛盾なんかが鼻についちゃうと思いますね。ところがアニメの場合、その辺を虚構の中のミゾに上手い具合に隠せちゃう。つまり実写で撮るのが本道に見えて、実はアニメーションじゃなきゃ成り立たない作品なんですよ」 「じゃあ、逆説的に言えば、敢えてそういう題材を選んだスタッフの勝利ってことになりますね」 「その通りです。宮崎さんはやはり慧眼ですね。どうすればヒットするアニメーションが作れるか、よく分かっている。まあ、プロデューサーや監督もすごい人ですけど」 「そういうことを考えていくと、これはとっても奥深い作品なのねえ」
彼女は感嘆したような声を出した。僕は宗旨替え作戦が上手くいったことにすっかり気をよくして、偉そうに言を継いだ。
「まあ、そんなに理屈っぽく観ないほうがいいですよ。あの作品は理想の青春を謳っているわけですから。こんな風にはいかないだろうなあ、と思いながらも、一方でうっとりとして観る。これが正しい視聴方法なんじゃないでしょうか。見終わった後、ああいう清い恋愛をしてみたいなあと思ったでしょう?」
すると彼女は決然と
「いいえ」
と述べ、次のように言った。
「初恋の人と両思いになれたってことは、振られた経験がまだないってことでしょう。失恋の愉しみを知らないようじゃあ、人生の味わいを半分も分かってないわね」
橋本繁久
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