武ニュースDiary


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2010年02月18日(木) GQ取材記� 聞洪掘�

方莉さんのブログ(こちらです)から。
とにかく始めなければと、短いですが、まずは最初のリード文から。


取材記――金城武篇

取材当日、急に晴れた。
10月の間中、東京は秋雨で湿っぽく、どんよりとした空気の中でもがいていた。
11月1日、この街は突然変身し、空は広々と青く、金色の輝きを見せたのである。
隅田川はさらさらと流れ、ねばりを感じさせる水面に、明るい日の光が一面にきらめいている。
1羽の白い水鳥が澄んだ水面から飛び立ち、風穏やかで日うららかな岸辺の静けさを破る。
私は川に沿って歩み、あるすっきりした形をしたコンクリートの建物の前で足を停めた。、
入口の表示板にはこう書かれている――4階スタジオ、使用者 GQ China、午後1時。

化粧室は扉が半分開いていた。
彼は髪を切ったばかりで椅子に腰掛け、こちらに背を向けて座っていた。
鏡が、実に男らしい穏やかな笑いたたえた顔を写している。
彼は満足そうに手を広げる。
まだ私服のままだ――アーミーグリーンのドリルの半袖Tシャツ、
左の胸に英語で「アメリカ軍」と縫いとりがしてあるのと、褪せた青いジーンズである。
伸びをするかと思ったら、不意にその手を頭の後ろに回し、
新しく刈ったばかりの短くなった髪を何気なくいじる。
機嫌は上々らしく、メイク師と話に花が咲いているようだ。

ジャズの音(ね)が、高く広い天窓のある白い空間に響いている。
ニューヨークから来たカメラマンと助手は機器の設置に忙しく、
ソファーでは、スタイリストとプロデューサーが小声で話をしていた。
彼が奥の部屋から出てきた。黒いジャケットと真っ白なシャツに着替えている。
みなが彼の方を見る。
この突如現れた、まごうことない凛然とした気にどうしても引き寄せられてしまう。
彼は軽く咳をし、まっすぐ撮影場所に向かって大股に歩いてきた。
目は炯炯と前方を凝視し、突然不思議な迫力ある光が輝きわたる。

23:40更新


台北日本人学校

「日が真っ青な空から照りつけて、
教室の前の長い長い大廊下が、強い日差しのもとで白く光っていました。
口もとにうっすら髭の生えた中3の男子生徒と、
まだ子どもの小1の生徒が、どたどたと走り抜けます」

「私たちの台北の学校には池があり、鴨や亀やカエルや、それに鯉までいました!
制服はなく、あの重たいランドセルも背負わなくてよかったんです。
先生は全員日本から来た人で、3年で入れ替わります。
小学部の子たちが突然転校してきたり、
また突然日本に帰ったりするのは、いつものことでした。
学校は楽しく、日本の学校よりずっと開放的でした。
1、2年生で、現地の日中ハーフの子たちが大勢入学してきました。
日本語がぜんぜん話せず、内緒話のときは集まって中国語で話していました。
もちろん、陰口なんかもきいていましたが、
別にどうということはなく、みなとても親しかった。
高学年になる頃には、クラスで日本語の話せない人は、もうほとんどいませんでした」

これは、台北日本人学校で9年間の義務教育を終えた
日本人の女子高生の回想である。
金城武は、この生徒の先輩に当たり、まさに彼女が語った、
あの「入学したときは日本語は全く話せなかった現地の日中ハーフの子」である。

金城武の母親は台湾人、父親は沖縄出身の日本人だ。
1973年、台北の万華に生まれた。2人の兄がいる。
母親は日本語が話せたし、事業で日本と台湾を往来していた父親も
ある程度中国語が話せた。
「台湾生まれで、子どものときから家ではずっと台湾語です」
台北の天母に引っ越した後、
彼は日本国籍の生徒を募集していた9年制の日本人学校に入学する。
混沌たる少年時代がここに始まった。

学校での昼食は母親の作る弁当だった。
母の得意な台湾のおかずが詰められており、
「もし、お母さんが間に合わなければ、おばあさんも作ってくれました」
金城武は母方の祖母を「ナイナイ(父方の祖母)」と言った。
「2人とも、とても料理が上手なんです」
思い出にとらえられ、どうしていいかわからなくなっているかのようだ。
「今ですか? おじいさんもおばあさんも、ひっかかっちゃいました」
わざと軽い口振りで言う。

学校の伝統行事では、クラス合唱をしたり、
教師が台をしつらえて焼きそばやお好み焼きや焼き鳥の店を出したり、
また、地面に大きな水盤を置き、子どもたちがしゃがんで、慎重に金魚すくいをする。
暗くなっても人は去らず、明かりをつけて太鼓を叩き、手を打って踊り、
体育館の上空にはまんまるい明るい花火が上がった。
学校中が盛り上がるとき、子どもの頃の金城武は、何人かの仲良しとずらかるのが常だった。
「ぼくはぜんぜん積極的に参加しませんでした」と彼は言う。
「逃げ出して学校の斜面にのぼり、“照明係”よろしく、
下にいる人たちを懐中電灯で照らして、大笑いしてました」

その頃、読書もしていて、飛んで行った図書館に、日本の伝奇小説『怪人二十面相』があり、
興味をひかれて読んでみたことがあるが、話は覚えていない。
20数年後、自らが本の中の伝奇的大怪盗となるのは、まだまだ先の話である。
時は図書館の時計と同じように、ゆっくりゆったり、流れていた。
もっと熱中していたのは、友達から借りたお笑い芸人志村けんのビデオとマンガである。
腹を抱えて笑しながら、一方では、
「あの時代に、どうしてこんなことができたのだろう? 
全部生放送で、あの大道具小道具、あのタイミング、あのギャクが?」と、好奇心を募らせていた。
有名になって、やっと憧れのお笑いヒーロー志村に日本で会うことができ、
CMで共演することになったのである。
「本当に光栄でした」

ゲーム好きは当時からで、やりすぎては母親に叱られた。
が、上に政策あれば、下に対策ありーー兄と布団にもぐりこみ、こっそりゲームを続けたのである。

金城武の母親は厳格というよりは、むしろ開けた人と言った方がいい。
まもなく正規の学校教育を受けようとしているのに、
日本語が話せない息子のことを「全然心配しなかった」。

私は、当時の彼と同じような背景を持つ6歳の日中ハーフの子のことを話した。
日本語が話せず、1人家に閉じこもってゲームをしているのである。
「その子は家で1人きりなの?」彼が条件反射のように、突然質問した。
「そうです」と私は答える。
「子どもは自分で成長するんだよね」
金城武の口調はすっと沈んだ感じになり、あたかも思い出の中に入り込んでしまったかのようだ。
母親の代弁をしているようでもあり、自分自身の体験を語っているようでもある。
「きょうだいがいなくちゃいけないね」
彼は真剣に言い、インタビューは心理相談のようになる――
「ぼくには兄弟がいたし、友達もたくさんいたから、困ったことは何もなかった。
両親も何とも思っていなかったし。
日本語は学校に行って次の年にはもう大丈夫になっていました。
もし子どもが寂しがっているのなら、とてもかわいそうだと思う」

少年時代の暮らしは、いつまでもほこりっぽさと汗の熱気と共にある。
混沌としてぼんやりしているが、忘れがたい。
「どの用務員さんたちとも知りあいでしたよ。
卒業後に何度か学校を訪ねて行ったのも、用務員さんに会いに行くためでもあったんです。
先生たちはとっくに台湾を離れていましたから。
みんな、ぼくの顔を覚えていて、校内に入れて遊ばせてくれました」
世は移る。
「学校には、もうだれも知っている人はいません。
行っても、会いに行く人がいないんです」    (続く)


 BBS   ネタバレDiary   1:30


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