クロッキー会と悪魔の物語 2002年01月30日(水)
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2/2までに描かなければいけない絵があるが、それは置いて、去年から是非描きたかった絵に着手する。
それは物語の挿絵。
WEBを見ていたらどうしても描きたい、イメージがやまない物語があって。それが子供っぽい感激だとしても、それを具現化したものに価値があるかどうかは私次第。やっぱり子供っぽいかもしれないし、何か面白いものが見えてくるかもしれない。
ということで着手する。
想像で描くのは、子供のころにさんざんやったはずなのに、本格的に絵の勉強をする時に思いっきり排除した引き出しなので、思い出すのは難しい。形がやっぱり一番気になるかな。あと、表情。顔の表情もだけれど、全身の表情。できれば背景もつけたい。森の中で獲物を狙う狩人。炎の中の弓兵。
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途中で厭きたりもするが、続ける。
宮崎駿の作業状態を思い出したりして。
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夕方、クロッキー会に参加したくでかける。渋滞によっては1時間以上かかると思われた道のり、わずか20分で着いたよ。ちょっと早すぎたので、美術学院の受付の人に挨拶してからちょっと周囲をバイクで散策。うおっ、そのまま隣の市にまで行ってしまったよ。
高速に繋がる道に乗りこんじゃったりして、帰れなくなるかと思った。
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会場は思ったより小さくて、学生が多い。受験生。以前バイトしていた目黒のアトリエよりも、10代の頃通ってた目白の美術学院により近い。なんか懐かしいような、居心地が悪いような妙な気分。
久しぶりのクロッキーはまず、自尊心との闘いだった。なんか描いているところを見られてるんじゃないかと厭な感じ。うまく描けた時は自慢したいような、駄目だったときは穴にも入りたいような、そんな感情の頂点と頂点を猛スピードで駆け上り滑り落ちる。
他人は自分に全く興味を示さない、見つめるのはモデルだけ。やっとそんな気持になる。
モデルさんはあんまり良くなかった。なんかねぇ、わたしの方に尻ばっかり向けるし。それでも綺麗ならばいんだけれど、ポーズが単調。
ヌードモデルさんて2パターンあって、身体はってポーズ決めてくれる人と、お金たくさん貰えるから適当にやっている人と。決めてくれる人は、ダンサーとか演劇やっている人とか、「見せる」ということに意識的。ボディビルダーが美しいとは思わないけれど、やっぱ鍛えている人は違う。
だから今回のモデルさんはそういう意味でも怠惰な感じ。ぶよっとした腹も、自分を見ているようで妙に不快。同族嫌悪か。
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そう、生きているということ。
一生懸命生きているとか言うと、なんかもうくさすぎて言葉から失笑さえもれるけれど、そうじゃなくて、生命力が強い人、とでも言おうか。文句無しに美しいんではなかろうか。
人でなくてもいい。室内にて目をひくあざやかな華、机上のシクラメンより、ベランダで夜は凍えているアロエやビワの挿し木、雑草の方が生命力を感じるのはもっともなこと。人間でもそうだろうな。
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クロッキー会でもうひとつ激昂してしまったことは、休憩時間のおしゃべり。デザイン科の学生らしく、PhotoshopやIllustratorの事をしゃべっている。それが明らかに「それは違うでしょうーーーー!!!」というような内容だったので、気になってしょうがない。
Photoshopデータを無闇にBMPやEPSにするな!よっぽど古いバージョンでもなければ、IllustratorとPhotoshopの各データはそのまま持って来られるはず。挙げ句の果てに、「IllustratorにPhotoshopの機能があればいいのに」なぞとほざく。お前はIllustratorで何がしたいんじゃーー!「イラスト」が描きたいのならPainterを使えーーー!!!!
わたしは現役のデザイナーではないし、印刷デザインの勉強はしたけれどもう良く憶えてない。Webデザインなら、Fireworksが良いよ、IllustratorとPhotoshopがあわさった感じだし。
…と、心の中で吠える。
助言したくてしょうがないらしい。
意味もなく吠えても気持が荒れるだけ。
いきなり口を挟むのも変だから、それ以上その話は聞かないことにした。
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多勢の中で一人を守るということ。
大変だ。
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読んでいる本は例の悪魔の本。
「悪魔の美術と物語」利倉隆著。美術出版社。
思ったより丁寧で面白い。
ひとつ、あれっという絵があった。
男の人が荒れ地にうずくまり、どこか遠いところを見つめている。これ、昔持っていた画集だ。
洋書だったので作者名も分からなかったんだけれど、その絵が載っていた。一番好きだったヤツ。
「19世紀のロシアの画家ヴルーベリ」、と書いてある。
夭逝した詩人レールモントフの「悪魔」に霊感を得た、とある。はぁ、私が好きだった孤独な青年は悪魔だったのか。
---以下引用---
詩人の描く堕天使=悪魔は、神に追放され地上を独り放浪する反逆者である。美しい娘タマラを見た時、彼の傲慢と絶望にすさんだ心に光が差した。だが悪魔は娘を誘惑して死に至らしめる。悪魔は彼女の魂を要求するが、神の審判はそれを拒み、悪魔は再び底知れない虚無に沈んでいく。
この悲劇的ともいえる悪魔のイメージをヴルーベリは晩年の十数年にわたって描き続けた。そこでは19世紀末の西欧を覆った不安な精神風土に画家の個人的な強迫観念が分かちがたく混ざりあっている。悪魔は画家の美のシンボルとなり、彼はロシアの近代絵画の中で最初の唯美主義者となる。
荒涼とした地上にすべてを否定して永遠に孤独に生きなければならない堕天使の悲しい姿。ここには邪悪さよりも絶望が際立っている。
わけても悪魔は肉体を持たない霊的な存在であるがゆえに、「悪魔の絶望は最高度の絶望である」(キルケゴール)。その絶望はヴルーベリ自身のものであった。最後の悪魔を描いた世紀の転換期を境に、この呪われた魂の画家は孤独な狂気の世界へと沈んでいった。
---以上引用---
うーーん、救いがない。
前半、「アダムとイブを誘惑したころの悪魔はもっと単純だった」とあった。悪魔も成長する。
今はどうなってしまったのだろうか?
街は夜も明るく闇もない。
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◆参考リンク
ロシア・ソビエト美術
┗MIKHAIL VRUBEL (1856-1910)坐るデモン(The Demon Seated)
象徴(幻想)絵画の歴史
ミハイル・ヴルーベリ
by HPY
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