「恋に恋する」という言葉があります。
例えば「恋に恋する年頃」など言うように、
人は思春期になったら必ず恋をする、またはしたくなるという
前提があるようです。
しかしこの言葉をよく考えてみると、別の事が気になります。
つまり、特定の相手がいるから初めて恋をするのではなく、
まず恋をしたいという欲望があるから恋をすると言う事です。
すると、そもそも恋愛というものの存在を知らなければ人は恋愛できません。
では、誰が恋愛を教えるのでしょうか?
先日、小谷野敦の『恋愛の超克』(角川書店2000年)と言う本を読んだのですが、
彼によると、恋愛というのは近代のイデオロギーのようです。
勿論、恋愛自体はそれ以前からありました。ただ近代の特異なところは、
「恋愛は誰にでもできる」「恋愛をしなければならない」と言う「恋愛教」が存在
し、
その強迫が人をして恋愛に向かわせているということです。
かつてルソーは、「人は自由である事を強要されている」と言いましたが、
それをもじって言えば「人は恋愛する事を強要されている」と言う事になります。
そしてこの事は逆に、恋愛できない人間という弱者を生み、
その弱者を差別する結果をもたらします。
だから理想社会は「恋愛をしなくてもいい」と言う事です。
無論、しても別に構わないのですが、ただ、
少なくとも恋愛至上主義は誤まりであると銘記せよ、というのが
著者の主張のように思われます。
この事は、個別フェミニズムに対する批判として向けられています。
フェミニストはあらゆる男権社会の価値を否定し、
「結婚」も「一夫一婦制」も女性を縛るものとして否定するが、
しかし恋愛(と、それと結びついたセックス)だけは否定しない、
ここに弱点があるというのが著者の認識のようです。
著者は言います。
「結局、『愛』という言葉は、女が男に依存しなければならない時代の産物だったの
だ。
経済的に自立していながら、『愛している』と言ってもらいたいというのはムシが良
すぎる。
男は、仕事上のライバルになるかもしれない相手を『愛』したりはしない。」(本書
70頁)。
でも、これがもし男女平等の理想社会ならばいささか寒々としてます。
だからフェミニズムは愛の幻想から完全に自由足り得なかったのかもしれないし、
また、著者自身、「友愛」による新たな結婚のプログラムを一応示してはいますが、
でもあまり現実味がありません。
なぜなら友愛すらできない人間は結局取り残されるでしょう。
だからこれは、あくまで単にフェミニズム理論の不徹底さへの異義申立てと読むべきでしょう。
このことは、後半の「売買春論」により顕れています。
(続く)