誰だったか昔の小説家で「親があっても子は育つ」と言った人がいます。
勿論これは、「親がなくても子は育つ」のもじりです。
「親がなくても…」の方が、
「親はあるべきだが、でも…」という反語を暗喩しているならば、
この「親があっても」は、要するに
「親なんかはない方がよい」と言う意味でしょう。
これは、本当に親がいなくていろいろ苦労した人からすれば
とんでもない言い草です。
でもおそらくこれを言った件の小説家は、
よほど親の被害に悩まされた人だったのでしょう。
動物の中で、人間ほど長い子供時代をもつ者、
つまり親の庇護下に置かれる期間の長い生き物はいません。
だから親は有形無形に子供に影響します。
特に現代の少子化と都市化した社会にあっては、
相対的に一人の子供に対する親の過剰な関心が必然的に強制される仕儀となります。
子供にとってこれは非常に窮屈な事です。
何故ならば、共同体の中に共有物として子供が存在しているのではなく、
全く親の占有物として子供は存在せざるを得ないからです。
こんな中で人が人として育つのは、まさに親の意向次第という度合いが強化されます。
だからこそ「親があっても…」です。
こんな時代では、親の弊害の方がむしろ大きくなるでしょう。
何となれば、子供は親によってもたらされる悪影響と闘いながら
自ら育たねばならないととうリスクとハンディを負わされるからです。
そうなればむしろ、親なんかいない方が、より自由に、奔放に、
あらゆる可能性を秘めて子供はすくすくと育つかもしれない
ということになります。
でも、それでも子供はそれなりに育つでしょう。
だから親の方でも、「親があっても子は育つ」ぐらいの気持ちでいたほうが
それはそれでよいと言う事かもしれません。