愛のないセックスはしたくない
セックスには恋愛が不可分という人が少なからずいます。
実は私もそうだったりするのですが、
尤も、では今までに、そんなに「愛」のあるセックスをしたのか
と言われると、甚だ怪しい気もして来ます。
そもそも愛のあるセックス云々という以前に、
何が本当に愛でどれなら愛じゃないんだ、と既定しなくちゃならなくなります。
にもかかわらず直観的に、愛がなければ、と何となく信じ込まされて
いるのは、やはりそういう「恋愛イデオロギー」に支配されているから
なのでしょうか。
恋愛という感情は普遍的に存在するわけではなく、また、
恋愛が結婚やセックスに必要条件だとする仕組みは
たかだかここ1世紀あまりの西欧近代に産み出されたに過ぎない、
という考え方があって、これを「ロマンチックラブ・イデオロギー」
と言うそうです。
イデオロギーだから、
それは単に特定の時代や社会の特殊な価値観に過ぎません。
つまり、近代の人間は、セックスには恋愛が不可欠なのが当然と
思いこまされているということです。
でも、それがイデオロギーに「過ぎない」と言われたからと言って、
急にそのイデオロギーから自由にもなれません。
逆に言うと、それが内面化されもう自由になれないほど
植え付けれている事がイデオロギーの本質だとも言えます。
結婚は、結婚後の生活にまで何も必ず愛が持続するわけでもないけど、
でも結婚自体には何らかの恋愛が必要と考えられているし、
それはたとえ見合いであっても、少なくとも何も感情がなくては
結婚にまでは至らないでしょう。
(独身なんでこの辺は想像的にしかよくわからない (泣)
それが必要なのは、まさにこの「近代」というシステムを維持するために
必要だからでしょう。
つまり、近代が結婚によって生まれた一組の「男女のカップル」を
単位とする社会であり、そうした家族単位を中心として
全ての社会制度が編成された社会である事に
恋愛イデオロギーが必要だと言う事です。
さて、こうした事、
つまり恋愛や結婚のコインの裏側にあって必要とされているのが所謂売春です。
売春ではなくセックスワークだと言う人もいて、
実は私も迷うのですが、でもここでは単なる労働としてのセックスワークより
現象としての売春の方が問題に相応しいので、あえてそちらを使います。
売春は勿論古代から人間社会に存在しますが、
でも近代のシステムのひとつに組みこまれた売春は、
まさしくこの近代の恋愛イデオロギーと密接に関係しているでしょう。
例えば、売春婦蔑視は何故存在するのでしょうか?
これは女性蔑視だから、或いは「性」は商品化してはいけないのが
人間的本質だからとか、いろいろ言えますが、
個別に恋愛イデオロギーにおいては、
「愛のないセックスをしてはいけない」とされるからです。
逆に言うと、そう言うものとしての売春の存在が、
「愛のあるセックス」やらそれに基いた結婚やら何やらの幻想を保証するのであり、
更にはそうした事々を中心に成り立っている
社会制度を裏支えしているとも言えます。
従って恋愛が至上のものとされる価値観に支配されている限り、、、
おそらく売春はセックスワークにはならないんでしょう。
近代は、人間を伝統的な共同社会のくびきから「個人」として解放しました。
それは人間を市民社会の中で欲望的存在として解放したと言う事でもあります。
しかし、その欲望、特に「性的欲望」に「愛情」という「護符」を貼る事によって、
同時に解放された性的欲望をコントロールする規範が設けられました。
それが多分恋愛イデオロギーでしょう。
つまり恋愛と結びついていないセックスや性的欲望を異端ものとして
忌避する考え方ですね。
さすれば、セックスと恋愛を切り離す発想もあり得るだろうし、
そして現にその方向に向かいつつあるのかもしれません。
しかし、セックスを必要以上に重要視したり過剰な快楽と見なしたりする考え方、
これもまた近代の欲望イデオロギーの副産物であるかもしれません。