村上春樹の小説「羊をめぐる冒険」は、
「1970年11月25日」という具体的な日付から始まっています。
「1973年のピンボール」をはじめとして、
彼の作品には具体的な年号や日付がしばしば登場します。
でもそれは逆に、そのような時代背景を無意味化するために
あえて使われているようです。
例えば件の「1970年11月25日」とは、
言うまでもなく作家の三島由紀夫が自衛隊に乱入して
割腹自決した日です。
その事は作品の中にも当然触れられています。
でもそれはこう書かれています。
「どちらにしてもそれは我々にとってどうでもいいことだった」。
或いは「1973年のピンボール」の一節にはこうあります。
「あなたは二十歳のころ何をしてたの?」
「女の子に夢中だったよ。」1969年、我らが年。
「その子とはどうなったの?」
「別れたね。」
実際には1969年が「我ら年」であるのは、
それが大学闘争の最も(そして最後に)高揚した年だったからです。
でもそのような世代が共有するであろう経験や感性を、
殊更に無視するためにこの年号は持ち出されています。
つまり大事なのは自分自身、全く個人的な事なのです。
村上春樹がデビューし、そして受け入れられたのは1980年半ばでした。
この当時、村上春樹とほぼ同世代、
俗に「ニューファミリー」などと呼ばれた世代がだいたい30歳代前半の年齢を迎えています。
一概には勿論言えませんが、凡そのところ彼らは、若い頃には学生運動も幾多は経験したけど
でも結局は「良い会社」に入って、そろそろ金銭的には幾分かの余裕ができ、
結婚もして子供でき、車も持ちました。
そして都心の郊外に一戸建て住宅を持つ事も、まだまだそれほど夢ではなかった時代です。
言いかえれば、「新保守層」などとも呼ばれたのもこの世代です。
つまり、実際には「いい生活」がしたくて、現実的で自分が大事で、
利己的で自己中心的であるにもかかわらず、
その反面、観念的には理想主義な尻尾をまだ切れずにいたりして、
口を開けば「愛」とか「真実」とか、美しい言葉が妙に好きな人たちだと思います。
実は彼らよりほぼ一回り以上は下の世代の私あたりからすると、
例えば会社などではこの手の連中が直接の上司だったりしますので、
一番鬱陶しい、そして胡散臭い、信用のおけない、だから大嫌いな世代です。
モロに被害を受けますからね。
それはともかく、村上春樹が描いたのは、
「1969年」や「1970年11月25日」が意味を持ってしまう事を、
あえてわざわざ否定して見せる事に対して、まだ「意味がある」時代でした。
私自身が彼の作品を主に読んだのは80年代も末の頃、
ちょうど「ノルウェイの森」が大ベストセラーとなり、
春樹ブームが頂点を迎えている時でしたが、
私などからすると春樹の日付へのこだわりには違和感があり、不可解でした。
と言うのは、私にはそういう特別の意味を持った「我らが年」もなければ、そして、
その日に自分が何をしていたのかを思い出せる、
時代の象徴的な具体的な日付はないからです。
つまり私には何も同世代と共通する体験はないし、
言いかえれば共感しない事自体がむしろ唯一の共通体験なのでしょう。
だから私には村上春樹が、一生懸命に世代的な共感を否定しているのが、
却って滑稽にも思えたものでした。
1970年代前半の井上陽水の曲に「傘がない」というのがあって、
これは多分、社会的な問題よりも個人的な事柄、
つまり「今の自分自身」の方が一番大事である、と歌った曲です。
でも、殊更にそのように言わなければならないところに、
やはり理想主義的な尻尾のまだまだ切れない、
村上春樹と共通する感覚を私は感じたりもするのです。。
都会では、自殺する若者が増えている
今朝来た新聞の片隅に書いていた
だけども問題は今日の雨 傘がない
行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ
君の町に行かなくちゃ 雨にぬれ
つめたい雨が 今日は心に浸みる
君の事以外は何も見えなくなる
それはいい事だろう?
傘がない…