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2002年06月07日(金) サヨナラだけが人生か?!〜ホームページが消える時〜

「サヨナラだけが人生だ」
というのは、中国の漢詩の言葉を作家の井伏鱒二が意訳したものらしい。
ちなみに原詩と井伏訳の全文は、次のようなものである。

勧君金屈巵 (コノサカズキヲ受ケテクレ)
満酌不須辞 (ドウゾナミナミツガシテオクレ)
花発多風雨 (ハナニアラシノタトエモアルゾ)
人生別離足 (サヨナラダケガ人生ダ)
 
…などと尤もらしい話から始まったが、別に高尚な話でも何でもない。
人生も「サヨナラだけ」かもしれないが、ネット上でも出会いがあれば別れもある。
ネットをサーフィンしていて、気に入ったホームページや日記がある。
ブックマークして巡回コースに入れ、日々読む事が日課になる。
でもある時を境に更新がなくなったので、どうした事かと思っていたら、
ある日、突然、

ページが見つかりません

ヘコむよね…。
「袖擦り合うも他生の縁」、じゃないが、
顔も名前も知らなくても、何かしら共感する事があったからわけだから。
「サヨナラだけが人生」かもしれない、
が、現実の世界では、それ相応に別れのための場面もある。
しかしネット上では、ある日忽然としていなくなってしまい、それっきり。
なんか、釈然としない、割り切れない思いや欠落感だけが残ってしまう。

話が飛ぶようだが、私は昔、「葬式」という白々しい「儀式」が嫌いだった。
坊主呼んで、下らない読経やらアホらしく花輪飾って…、
人の死を悼む切実な気持ちに何の関係もないじゃないか、と思っていた。
でもある時から、その意味がわかった。
あれは現実に区切りをつけるために必要な形式なのだ。
その人の「不在」を認識させるためなのだよね。
誰もバカバカしいと思っていても、それが必要なのは、そういう事なのだ。
人は、その「空虚」に耐える事で、現実を受け入れるものなのだ。

でも、ホームページの「死」には、勿論そんな「儀式」はあり得ない。

私は掲示板カキコが苦手で、ROM専が多い。
かしこまったり改まったりしてしまうので、なかなか気軽く書きこめない。
閉鎖になってから「残念です」なんて言っても、何の役にも立たないのはわかっているのだけれど、
その前に何か一言、言ってあげていればよかった、と、
後悔する事がしきりである。

嗚呼、
所詮、「サヨナラだけが人生」、か…。


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