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2002年10月20日(日) 司馬遼太郎『豊臣家の人々』(中公文庫・角川文庫)

(久し振りに読書感想文を書きます)

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いきなり余談だが、完全滅亡した戦国武将・大名家というのはあまりない。
例えば信長の織田家は、別に本能寺の変で絶えたわけではなく、
信長の弟や子の家系が大名・旗本として江戸時代も存在している。
或いは早雲以来の後北条氏は、秀吉の小田原攻めで滅亡とよく書かれているが、
実は河内狭山1万石の大名で明治まで続いている。
また、関ヶ原の敗者である石田三成や大谷吉継の子孫も、藩士クラスでは残っている。
明智光秀ですらガラシャを通じて細川家に血が続いている。
完全滅亡して家系も血統も伝えていないのは、秀吉の豊臣家ぐらいのものかもしれない。

さてその豊臣家だが、この家が特異なのは、「豊臣」氏が「源平藤橘」と並ぶ賜姓
(天皇から賜った姓)であるという事である。
すなわち、俗に「氏素性」とは、「源平藤橘(プラス豊)」の5氏を指す。
例えば徳川家康の「徳川」とは俗姓であって、正式には「源家康」となる。
もっとも家康の場合、源氏でなければ征夷大将軍になれないので源氏を騙った、ニセ源氏なのだが、
うまく新田源氏の系図に結びつけて源氏を称する事ができたのだ。
でも秀吉の場合、百姓の出で源氏でも平氏でもない事は天下に歴然としているので、
「源平藤橘」以外の新姓として「豊臣」姓を賜る事で関白の地位に就いた次第である
(従って本当は豊臣ではなく単に「豊」氏というのが正確なのかもしれない)。

その「豊臣家」はたった30年で消滅してしまった。
秀吉一代で成り上がり、秀吉一代で潰れたわけだ。
秀吉の子種が薄かった事が最大の理由だろう。
もし子沢山だったら、大坂の陣で滅亡しなかっただろうし、
そもそも関ヶ原で政権を徳川家に奪われる事もなかったに違いない。
ただ、尾張中村在のたかが足軽百姓のせがれの「猿」が、天下人・豊臣秀吉になりおせてしまった事は、
彼にまつわる人々の生き方をも変えた。
司馬遼太郎が『豊臣家の人々』で取り上げたのは、
血族や係累の少なかった秀吉の、それでも「一族縁者」と言える人たちの不思議な人生である。
「大和大納言」の異名で知られる秀吉の異父弟・秀長、
家康と政略結婚させられた妹・旭姫、
秀吉の養子になった甥の秀次、小早川秀秋、
同じく養子になった宇喜多秀家、
家康の実子ながら秀吉の人質から養子になった結城秀康、
正室・北の政所(おね)
側室・淀の殿(茶々)、
そして、その子(秀頼)....。
彼らに共通するのは、秀吉に降りまわされた自分たちの人生はいったい何だったのかという、
不可解な思いだ。

例えばただの百姓に過ぎなかった弥助は妻の兄(秀吉)が天下人になった事で、
その一族として俄に大名にされてしまった。
さらに秀吉に実子がなかったために自分の子がその後継者(関白秀次)になり
しかもその秀次が謀反の汚名を着せられ殺戮される事で、
弥助自身も所領と官位を没収されもとの平人に戻されてしまう。
自分では何もしていないのにただ秀吉に翻弄された、めまぐるしい人生である。
司馬はそれをこう書いている。

  「なんのことだ」
  この弥助は、讃岐の配所でわが食い扶持を耕しつつ、日に何度もつぶやいた。
  なんのことだったか、この実父もまた自分の一生の正体が理解できなかったにちがいない。

「なんのことだ」、
というのは、秀吉に関わった「豊臣家の人々」に共通する、
そしてこの連作小説のテーマだ。
と言って司馬はその張本人である秀吉を責めているのではなく、
彼の筆致には秀吉の「豊臣家」という、突然異変のように歴史上に勃興し、そして消えて行った、
奇妙な存在に対する限りない愛憐の情が窺える。
例えば家康より秀吉を司馬が好んでいる事は、『覇王の家』『関ヶ原』『城塞』での
家康と彼の「徳川家」への、悪意的とも言える描き方にも表れている。
近年(とくに司馬没後)、「司馬史観」などともてはやされて、司馬が一個の「歴史大家」であったかのような虚名に飾られいたる。
しかし彼は紛れもない小説家であり、そして詩操家であり、
かつまた、そのようにしてのみ評価されるべきであろう。
それはこの『豊臣家の人々』本文の、情感溢れる最後の一文でも明かである。

「…
このようにしてこの家はほろんだ。
このように観じ去ってみれば、豊臣家の栄華は、
秀吉と天才が生んだひとひらの幻影であったとすら思える」
…。


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