前回の『豊臣家の人々』に引き続き、司馬遼太郎の『関ヶ原』『城塞』(新潮文庫)を一気に読了した。
私はこれまで司馬の熱心な読み手ではなかった。
まあ、幕末・維新にはかねて興味を持っているので、
『竜馬がゆく』や『翔ぶが如く』『世に棲む日々』等々は読んでいたが、
戦国物を読んだのは『国盗り物語』以来だった。
『関ヶ原』はその名の通り、豊臣秀吉死去から関ヶ原の戦いに至る、
石田三成と徳川家康の丁々発止の戦いの記録である。
三成=西軍敗北の原因は、いろいろある。
秀吉一代で成り上がった豊臣体制の不備、或いは、三成の人的狭量・・・等々。
しかし結局は三成の分限が19万5千石足らずの小大名だった事だ。
一方の家康は250万石余りである。これでは勝負にならない。
また、『城塞』は関ヶ原以降、大坂の陣での豊臣氏滅亡に至る過程を描いている。
ここでも豊臣滅亡の原因は様々に考慮される。
家康の悪辣や、淀殿に支配された大坂方の無能etc。
しかしここでも所詮は「力」である。
例えば開戦直前まで大坂と関東(家康)の調整の狭間に立たされた片桐旦元(豊臣家家老)の苦悩は、
こう描かれている。
強弱でいえば、本来、外交などということも、これは強者のためにあるもので、
弱者の外交というものは本来成立しがたいものなのかもしれない.。(『城塞(上)』)
確かに家康は豊臣氏に無理難題を押し付けた。
その意味では豊臣氏に道理がある。
でも所詮、力なき者の道理は無力であり、そこで提唱される正義はひかれ者の小唄だ。
だから豊臣氏は滅ぶべくして滅びたし徳川氏は260年に及ぶ栄華を誇った。
これは今日のパワーポリティックスにも共通する教訓であろう。
歴史に「IF」はないのかもしれない。