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ラヂオスターの悲劇
トマーシ
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2003年10月10日(金)
ざ・くらむちゃうだーすーぷ

 一日のスケジュールをたてることとか、様々なお金の見積もりをたてることとか、その出納帳をつけることとか、諸々のことは何でもりんごビッチが全部自分ひとりでこなさなければいけなかった。
 毎夜、両手に一杯の花を持って、りんごビッチはやってくる。窓を開けて、空気を入れ替え、赤いカーテンを引き絞る。踏み台に乗ってエアコンディショナーの調節、そのコンディショナーは目盛りが緩くなっていて、故障も随分と多かった。
しかしやがてブンと 錆びついたプロペラはまわりはじめる。生温かい風。小さな、小さな自分の部屋をりんごビッチは見回してみる。相当なお金をはたいて借りた自分だけの部屋。欠点をあげつらえばきりがない。りんごビッチは誰にも聞こえないくらいの溜め息をついて首を振る。思い出して、部屋の外、扉に掛かった札を裏返す。
―いちじかんでいちまんえんもらいます。はいるときはのっくしてください―
札の文字は全て平仮名で書いてある。りんごビッチはそれ以外何も書かなかった。それ以上、何を書いて良いのかも思いつかなかったのだ。
 また客が来ていたり、本当に誰も居ない時の為に札の裏側には
―だれもいません―
と、書いた。客が帰ると、裏返す。客が来たらまた裏返す。それで十分だった。スェーデンの家具みたいに心細い足で、りんごビッチは廊下の向こうを伺う。そこだけ光が射していたからだ。外からは後、キャバレーの呼び込みの声が聞こえる。りんごビッチは肩をすくめて部屋に戻る。
板切れを敷いて仕切られたキッチン、金魚も買えそうもないシンクで水を汲み、買ってきた花を活ける。娼家にしてはテーブルが大きい。それは毎日花を活けるため。床に置いた黄色いバケツにはソルボンヌ、赤いガーベラ、紫のトルコ桔梗、それからブルーチース。
花を活けている間は何も考えない。そぞろな気分に襲われたら、ミルドレッド・ベイリーのレコードを掛ける。赤いカーテンに艶やかな花、ミルドレッド・ベイリーのレコードと、まるで往年のニューオーリンズみたいだとりんごビッチは思う。
「この金で俺と一緒に来ないか?」
まるで、閉じていたたなごろを開いて、温かくて柔らかい鳩の子を出して見せるように言った男がいた。
「どこへ?」
そう聞き返すと、男は眉をスルリと下げて
「どこでも。」
と、優しい声で答える。
「少し考えさせて。」
「いいとも。また来たときに。」
「また来てね。」
 しかしその男はそれから一度もりんごビッチのところに来ていない。何処かに店を変えたという噂も聞かなかった。りんごビッチは実はそれから何日、何年経ったかを数えている。りんごビッチの手帳には、でもそんな数字が他にも幾つかあった。りんごビッチは気分を変えて窓の外の海を見る。今日は悪い風が吹いている。それでやっとのことで花を活け終えた。その花を少し窓の方に正面を向ける。
 またキッチンに立ち、湯を沸かす。その間にベットメイクを済ませたり、タオルの替えをチェックしたり、自分の髪に薔薇水を擦り込んでみたり。日は次第次第に暮れていく。そこにはいつも残酷な悲鳴みたいなものが交じる。湯が沸き、マグカップに空けた粉末のクラムチャウダースープに注ぐ。りんごビッチは樫の木で作られた頑丈なロッキングチェアに腰掛けて一匙、一匙と、それを舐める。レコードを換えながら・・・ ブックラックを散らかして本を読み替えたりしながら・・・
やがてその日最初のノックがりんごビッチの部屋にやってきた。