umityanの日記
DiaryINDEXpastwill


2001年12月04日(火) 愛についての一考察

生きていて一番うれしいことは、「自分が人に愛されているのだ」という自覚がもてたときではないだろうか。どんなにお金があっても、愛されていなければ、心は満たされない。「愛は金で買うさ」という人がいるかも知れない。うんんん、確かにそれも不可能ではないだろう。人間の心って、欲には負けることが多いからだ。ただ、金で買う愛はやはり、打算的であり、金の切れ目が縁の切れ目になることは間違いない。そこには本当の愛は芽生えにくい。人は口では何やかんやと言いながら、いつも、やさしい、打算のない愛に飢えているように思える。昔、奪う愛やら、捧げる愛とかについて、勉強したことがあった。愛は奪おうとするから苦しいし、捧げる愛なら苦しくないとか、本で読んだ。捧げる愛こそ本当の愛?。そうなんだろうか?。捧げる愛なんて、まず、できっこない。若いころは、そこまで、精神が昇華されていないからだ。愛はいつも奪おうとする。奪って奪いつくそうとする。そして傷つき、それでもまだ奪おうとする。よく考えてみれば残酷である。ただ、齢をとってくると、昔のあの激しい奪う愛が嘘だったみたいに、捧げる愛に転換してくるような錯覚を覚える。いや、これは錯覚ではないのかもしれない。「もう、おまえはずいぶんと齢を重ねたから、捧げる愛の男に転換したのか」と誰かが問うた。僕はすかさず、二本指を相手にかざし、左右に振りながら、「つつつつつつ」と口ずさむだろう。もちろんこれは「ノー」のサインである。「まだまだ、僕だって現役のばりばりだぞ」と言えば、僕を知る人はおそらく大笑いするかもしれない。「あんたって若いねーーー」と。
まあ、それは置いといて、最近、確かに奪うことに疲れが出てきたことは事実である。もっと違う表現をすれば、やさしい、本当の愛を得ようと思えば、まず自らが愛を捧げることが肝要であるということが分かってきたのかもしれない。
「さあ、これからは、捧げる愛の男に変身だ」。と行きたい所だが、そんな器用なことはできない。ただ、少しずつ、「捧げる愛」を深めて行きたい。そんな気がする。


umityan |MAILHomePage

My追加