umityanの日記
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| 2003年12月19日(金) |
ばあさまの死。これは幻なんだろうか?。 |
ばあさまの死。これは幻なんだろうか?。 at 2003 12/19 13:12 編集
ばあ様が15日亡くなった。病院に担ぎ込まれ、二週間のあいだ、病魔と闘った。残念ながら命が尽きた。何の苦しみもなかった。大往生である。
あわただしく、通夜、葬儀、火葬と、時が流れた。すべてが、二・三日のうちに終了するのだ。集まった人たちも、人一人減り、二人減りで、最後に家族が残る。
いままで、茶の間に「でーーーん」と座って、茶をすすっていた、ばあ様の姿は、もうない。本当に不思議な気がする。「夜遊びがすぎますよ。お坊ちゃま!!。食事はよくかんで」とか、ぶつぶつ言いながら、座っていた、あの姿は幻だったのか?。そうかもしれない。肉体をまとって生きている僕たちの姿なんて、幻なのかもしれない。実体なんてない?。
火葬にふすまでは、肉体があった。死に化粧をした顔は童顔のごとくに美しかった。まるで生きているようだった。しかるに、ほぼ、二時間の火葬で、灰と、すっからかんの骨になるのだ。見事というしかない。箸で、拾骨し、つぼに収める。箸でつつきながら、散在した骨を拾う。綿菓子みたいにもろい骨。あまりの軽さに驚く。拾い切れなかった骨や灰は一体、どこへいくのだろう?。
「釈迦内柩唄」で、女おんぼ役を演じた、「有馬理恵」さんが言ったせりふを思い出した。 「人を焼いた灰は、コスモス畑に蒔いて、毎年、毎年、美しいコスモスの花が咲く。どんな偉い人も、そうでない人も、一様に美しい花を咲かせる。」
ばあ様の灰も、どこかの畑にまかれるのだろうか?。一瞬、そんなことを思った。 同時に、灰になった人間のはかなさを感ぜずにはいられなかった。
幾多の人間ががなくなっても、地球は何知らぬ顔をして回っているし、時はその流れを止めることもない。たんたんとしたものだ。そして、僕たちもその流れに乗っかって、淡々としている。死は暗黙のうちに肯定された約束事だから、そうせざるを得ないのだろう。そんな気がする。
暗黙の肯定だからこそ、ばあ様の死を幻なとして片つけたい。幻だから、もともといなかったわけだ。そして、消滅したわけだ。僕だって、周りにいる色んな人達だって、いつかは消滅する。何の不思議はない。暗黙の約束事なのだ。幻なのだ。
理屈では分かっていても、悲しみや、むなしさは、いつまでも、心の奥に残っている。自らが死ぬときにならないと、、その悲しみやむなしさは消えないのかもしれない。
今、僕は静かになった、わが事務室で今年初めて降った初雪を眺めながら、そっとこの日記をしたためている。明日に幸あれと、祈りながら。
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