umityanの日記
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| 2004年06月03日(木) |
梅雨の谷間の快晴。何故か心は暗い。 |
梅雨の谷間の快晴。何故か心は暗い。 at 2004 06/03 13:49 編集
蒸し暑い今日を迎えた。梅雨の谷間の刹那の快晴であるが、じとじとと、汗ばんでくる。この、感触は嫌である。
そんな中、朝から、仕事で、クライアントのところへ。ようやく、刹那の時間が取れ、キーボードを叩いている。悪く言えば仕事をサボっているわけだ。最近、おももち、仕事の量が増えている。良い傾向であるが、本来怠け者の僕にとっては、億劫になるときもある。おまんまのためとあらば、いたしかたがない。昔、先輩が言っていた言葉を思い出す。「仕事は遊びと思え」と。うんんん、社交での遊びなら、億劫にならないが、ビジネスとなると、そうも行かないようだ。小市民の僕には、到底、そんな悟ったような心境にはなれない。まああ、おまんま半分、人助け半分と思い、ひたすら鞭打って走るしかないわけだ。
ところで、先日、起こった事件には驚いた。女児が女児を殺害する。なんという、ショッキングな事件だろう。短絡的に行動に出てしまう人間の悲しさ。大人であれ、子供であれ、そんな要素は誰もが持っている。僕にもあるだろう。だからこそ、物事に対して、一歩、踏みとどまって考える習慣というか、癖をもちたい。一歩下がって考えることは決して敗北ではない。子供にはそれが無理なんだろうか?。決してそんなことはないだろう。思うに、過度な競争主義、残酷主義(殺りくを伴うアニメ、映画、戦争、いじめ、差別等)を生み出した社会に、根本原因があることは否めない。虚構と現実が錯綜するところに、短絡的行動が顔を出してしまうのだ。その救いの道は、なんといっても、教育に求められるだろう。
今の学校教育では走ることは教えても、立ち止まって考えることの重要性をを教えないのだろうか?。「ゆとりある教育」」が、スローガンみたいになっているが、ゆとりとは教育環境の整備や、適正人員を配置することではない。場所は掘っ立て小屋でも、窮屈な環境でも、ゆとりある教育は出来るわけだ。要は心の持ち次第であり、それに携わる人の姿勢の問題だろう。
心が立派に育ってこそ、ゆとりある教育というものだ。昨今の現状を見ると、事なかれ主義が蔓延し、平気で他人を中傷し、傷つけていることが多い。やはり、どんな人間関係のなかにあっても、冷静、沈着、思いやりの心を忘れてはいけないだろう。他人を傷つけていると指摘されたら、一歩踏みとどまって考え、素直にあやまるという謙虚さが大事である。教育とはそういうことを教える場ではないのか?。
ただ、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉もあるように、ただただ、悲しいj事件といわざるを得ない。 なくなった女児の冥福を心から願い、又、罪をおかした女児の一日も早い更生を期待したい。罪を憎んで人を憎まずとは、そういうことなんだろう。かくして、形式主義ではなく、真からの心の教育に、もっと、抜本的な改革が必要だろう。年金問題以上に、これは大事な問題である。何故か今日の僕の心は暗い。
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