umityanの日記
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2004年12月17日(金) 豊かさと子供

最近、とみに感じるが、世の中がめまぐるしいスピードで変化している。
「一体どうなっているの?」と思うことばかりだ。仕事上でも、電子化の波が押し寄せてきて、年を食えば食うほど新しいシステムについていけない。書類はその大半がペーパーレス化し、コピーされたペーパーは形式化され、味気ない活字が羅列されているだけ。見た目はきれいだが、どうも、書類に塗りこめられた作者の心情とか心意気とか、熱い息吹みたいなものが伝わってこない。ビジネス文書にはそういうものは、不要と言えば不要かもしれないが・・・・。その点、昔は、「誰が書いたのだろう?、作成者は誰かしら?」と思わせるような達筆な文字で書類がしたためられていたり、字は下手だが丁寧に書かれていたり、はたまた乱暴な字で、見るのも嫌だというような書類もあった。
見るほうは大変だが、なんだか書類が生きているという実感があった。
しかるに今は、冷たく凍っている活字だけが目に飛び込んでくる。

国の方針は機動力に飛んだ身軽な国家経営体質への転身ということにある。電子化はその流れの一環をなすものだ。世界の水準に遅れをとってはなるまいと、急ピッチで、あらゆる分野での21世紀型先端技術を追い続けているわけだ。確かにその方針は間違っていないだろう。なぜならば、後10年か20年すると、おびただしい高齢者が巷にあふれ、若手の労働人口が激減する。働けない老人が増えて、働く若者が少ないとなれば、当然、世の中の推進力を補うものとしての電子化は重要な問題である。代替労働力として、ロボットの役割も大きくなるだろう。

いやはや、えらい時代に生を紡いでいることよ。ともあれ、巷にあふれた高齢者達はいかに往くべきだろうか?。大半が高層ビルの中に設けられた老人ホームや介護施設で愉快に楽しく生きることになるのだろうか?。うんんんん・・・・どうもそれは否ではないだろうか。幾ばくかの年金を頼りに、再び「ウサギ小屋」のような狭い空間で、アップ、アップしながら生きていくのが関の山かもしれない?。断じてそういう往き方は嫌だが、どうなることやら?。

悲観的なことを書いた。この責任はやはり自らに帰すべきかも知れない。豊かさを享受する代償として、20世紀後半から文明圏では子供を生まなくなった。子供をたくさん生めば、豊かさを犠牲にしなければいけなくなった。お金もかかり、自分の欲や快楽や行動が制限されてしまう。そうなることを拒否したわけだ。僕とて大きいことをいえる立場ではない。子供が一人しかいないからだ。たとえ、子供が好きで、「お腹、大きくなあれ・・・」と、想像妊娠らしきことは出来ても、最終的には自らの腹を痛めて、「おぎゃー」とベイビーを産むことなんて出来ないからだ。悲しいぜ。

思うに、子供の数と豊かさを天秤にかけることが、そもそも間違っているような気がする。本来ならば、子供の数が多ければ多いほど、世の中は豊かになっていかなければならない。なぜなら、未来により多くの夢を託せるからだ。夢の実現だって、どんどんかなう。社会が豊かにならないわけが無い。子供の心だって、兄弟姉妹の間ではぐくまれる。一人っ子では、多産の動物達のように、じゃれあうことも出来ない。あの、じゃれあいが、心を成長させるのでは。ただ、気付くのが遅かったのかもしれない。誰も少子化が自分達の首を絞めることになるとは思っていなかったのだろう。僕もまったく考えていなかった。

子供が少ないという付けが、まもなくやってくる。電子化しかり。ウサギ小屋しかり。心の荒廃化しかり。ゆゆしいことだ。だが、まだ遅くは無いだろう。「どうぞ、未来を担う少年少女たちよ。子供を生んでくださいな」。
「おれ、おれ、私、私」で、高齢者から金をせびるのではなく、「出来ちゃった。また出来ちゃった」で、子供を育てたほうが、はるかに未来が明るいような気がする。僕だって、老骨に鞭打って、あと、一人や二人、いや、もっともっと、と子供が欲しいと思うこのごろである。


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