umityanの日記
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今日は成人の日。少子化の中で、成人となられた方々に、「おめでとう」という言葉を言いたい。僕も、昔を思い出した。二十歳になって、周りから、お祝いされることがなんとなく照れくさかった。「二十歳は二十歳だ。単なる時の流れで、どうということもない」と、吠えたものだ。ただ、選挙権が与えられ、大人として、社会の中で、一人前の責任を負わなければならない。そういう意味では人生における一つのけじめだったと思う。
考えてみると、「おぎゃーーー」と生まれてから、墓場へ行くまでの間に、人は何度も、「けじめ」をつけなければならない情況に遭遇する。けじめも人によってさまざまだが、一般的に言うと、入学と卒業、成人式、就職、結婚、子育て、子の独立、定年、墓場ということになるのか?。その中で、行政が大きく関与するのは、やはり、成人式だろう。選挙人名簿に名前が記載され、いっぱしの大人として社会が迎えるわけだ。要するに、親権者の同意なくして、法律行為が出来るわけだ。責任と義務が、「どどーーーつ」と、双肩にのしかかってくる。大人になるのも大変だぜ!!。今はそう思うが、当時はなんと言うことはなかった。当たり前に過ごし、当たり前に生きることしか頭に無かった。恐らく、皆、そんな気持だろう。
僕に言わせれば、成人とは、お年だまをあげるようになったときと説く。従って、二十歳と言うように年齢を限定する必要も無い。二十歳以前から働いて、働いて、幾ばくかでも、お年玉をあげているような人は、とっくに成人なのだ。二十歳を過ぎても、お年玉の寵愛を受けている人は、成人ではない。まあ、これは僕の定義だから、誰も怒る人はいないだろう。ちなみに僕も二十三歳を過ぎてから、やっと大人になった。今は、お年玉が、どんどん出て行くばかり。回収はゼロ。あえて、回収出来ることと言えば、墓場に入るときの香典代くらいだろう。その額がいくらになるのかも知らずに死んでいくわけだ。そう考えると、香典は生きているときにもらったほうがいいのかもしれない。歳出・歳入の収支計算が出来るからだ。
ただし、僕の場合は生前に香典をいただいたら、飲み代に転化されそうだ。死んだとき、香典ゼロで、争議費用等すべてを手出しするだけの資力があるのやら、ないのやら。おやおや、成人式の時に、こんなめめしいことを言っている場合ではなかった。
僕が言いたいのは、成人式は、未来を託す若者達への温かいエール。しからば、既に大人たる我々は、もっと、彼らに良い大人としての見本を示してあげねばと言うことである。さらにもう一つ。願わくば、中年を祝う祝日を法制化してもらいたいということである。人生80年として、その中間である40歳もしくは50歳の時に、中年を祝う日を設け、行政側より、式典なんか催してもらいたいものよ。さすれば、中年の頑張りももっと増すのではないか?。60歳の還暦は遠慮したい。まだ、子供に戻る歳じゃない。 僕が吠えても仕方がないが、そうなると、世の中も少しは変わるんじゃないかと、実現しそうも無い提案を一つ掲げて、今日の備忘録を閉じよう。
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