音の記憶(全8回) <8> 肉じゃが - 2002年10月02日(水) 都内の僕の部屋は今も音に溢れている。 友達と話しながらの食事もいいし、鳥の声で目覚める朝も気持ちいい。 時には友達と邦楽をガンガンかけながら酒盛りをして、隣の人に怒られたこともある。 友達が少しずつ増えている気がする。悪くない傾向だった。 今夜はお客さんがくることになっている。 僕はそのお客さんのために夕飯の準備をはじめた。 待ち合わせの時間の5分前にこの部屋のドアをノックした彼女を、 僕は笑顔で招き入れた。 「あれ?いつもみたいに音楽かけてないんだ?」 「うん。今はいいんだ。こたつに座ってて、すぐできるから。何か飲む?」 「何があるの?」 「緑茶とコーヒーと、お湯?」ととぼけたように言うと、 「お湯なんていらない。」と少し笑いながら言った。 「音楽がないこの部屋も素敵だと思うわ。そう思わない?」 「う〜ん、まだ慣れていないけど、悪くはないよ。」 「私、結構好きかも。」 彼女は炊き上がったばかりのごはんのいい匂いと、 サラダ用のキャベツを切る包丁の音をJAZZのCDを見ながら味わっているみたいだった。 気にしているみたいだったので「聞いてみる?」と尋ねたが、 顔だけをこっちにむけて「ううん」というように少し横に振ってみせた。 いつもと違って肉じゃがのいい匂いが部屋に充満している。 これまで、こういう風に匂いを味わったことすらなかったかもしれない。 包丁が食材を刻む音も、調理器具が擦れ合う音も、 フライパンの上で油がはじける音も、水が沸騰する時の音でさえも、 気にも留めず受け流していた音だったのだ。 今では、すべての音が音として存在している。 当たり前のことだったが、それは不思議なくらい新しい発見だった。 出来上がった食事をこたつの上に並べてみると、かなり豪華な感じになってしまった。 ふたりで食べるには少し多すぎたかもしれない。 「うわ〜、おいしそう。」 僕たちは実に楽しい食事をした。 芸能人のことだとか最近のJ-POPについて、あることないこと話をした。 おもしろい友達の話だとか、高校のときの話だとか、笑いが絶えることはなかったし、 彼女と二人でこういう時間を過ごせたことが何より嬉しかった。 少し大きく切りすぎた肉じゃがのにんじんも気にならなかった。 二人で少し多く作りすぎた夕食を全部たいらげると、 「これを聞きたい。」と一枚のJAZZのCDを持ってきた。 トラック1が流れ始めると、部屋の雰囲気が変わったのがわかった。 以前、音楽を流していたときのような張り詰めた緊張感も、妙な強迫観念もない。 ただ、そこに音楽が流れているだけだった。 そして僕は彼女をはじめて抱いた。今までで最高のセックスだった。 夏真っ盛りのせいでかなりの汗をかきながらも、お互いを強く抱き締め合っていた。 今まで彼女を抱くことに抵抗があったことが嘘みたいで、 自分でも僕が彼女を心の底から求めているのが分かった。 JAZZのCDが3週目に入った頃、 彼女は僕の腕の中で「食事おいしかったわ。ごちそうさま。」と言って、 脇の下あたりに軽くキスをした。 「本当はね、あなたってどこにいるのかよくわからなかったの。 つかみ所がないっていうか、すごく存在があやふやだった。 話をしていても、どこか違うところにいるみたいだったし、 私のこと見えてないのかと思ったこともあったわ。 でも、今は違う。こうして隣に居てくれるのがわかるの。 なんだかよくわからないけど、私にはそう思うことができるの。」 「今度、僕の両親に会ってくれない?紹介したいんだけど。」 「えっ?」 「もちろん、君のご両親にもあいさつにいくよ。」 「きっとあなたなら大丈夫だと思うわ。」 「君とは楽しい食卓を囲めそうな気がする。」 「それってプロポーズ?」少し照れ笑いしているようだった。 「君と一緒に行きたい場所があるんだ。あの景色を君にも見せてあげたい。」 ...
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