カウントシープ
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2005年05月16日(月) |
絵画考察4 アンバランス |
かのアングルが少女や女性を描いた時、そのデッサンの悪さに人々は悪態をついた。グランド・オダリスクに対する評価は散々だったが、現在までこの絵は名画として堂々と飾られている。アングルが求めたのは究極の美、一点の染みもない美しい肌、流れるような曲線であり、魂を内在させる隙のないような美しいものだった。
当時温かみにかけるだとか人間味がないといわれたが、必ずしも絵に、人間臭さがにじみ出ていなくてならないという法則はない。モナ・リザだって、あの何処までも不気味で不可解な雰囲気が何百年も人を惹き付けているけれど、モナ・リザが人間臭いかと言われたらNO!だろう。 アングルの絵にはそうした不気味さやミステリアスも存在しない。求めたのは美意識という1点張りで、いっそ清清しいくらいのポリシーを感じる。
さて、アングルのように、他を排斥してまで何かを貫いた世界、というのは実はとても魅力的である。バランスがいいことは心地よいが、多少の退屈を感じるものであり、アンバランスにはどこか不愉快さを感じながらも、その歪みに魅力を感じてしまうものだ。
多重人格者を扱った小説を読むとき、その極端な人格に憧れめいた気持ちさえ抱くだろう。子供の人格、他性の人格、真面目な人格、強迫的な人格、叫び続ける人格、暴れる人格、怖がる人格、賢い人格。ジキルとハイドのように2人いるなら、その悪人ぶりに惹き付けられるし、清楚な女性の中の悪女も魅力的といえるだろう。多重人格者の治療においては、全体を統合することであり、そうすることで神秘的な目の前の患者は、自分と同じ平凡な、1人のまとまった人間に戻っていくのだが、それにどこか寂しさを覚えてしまうのは何故か?
ある絵に色々なヒントが散りばめられていて、絵を読み解くことも魅力的だが、排斥され描かれなかったものを見つけることによって読み取れるメッセージもある。
どこかを特出して強調し、他を排斥することで追及されるものは何なのか、 そうまでして強調された表現の先にあるものは?ということで次の日記へ。
ロビン
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