カウントシープ
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| 2005年06月24日(金) |
お人形遊び ユノア・クルス5 |
絵画考察の回でも述べたが、対象を、できるだけ近づけて表現することと、ディフォルメしていくことの差はなんだろう。 殆ど必ず人形は美しく作られ、ストイックさを感じさせる存在であり、無駄なものをそぎ落とされた、もしくは存在しないものを付け加えられたとしても、それは理想のカタチのひとつなのだ。
ユノア・クルスは、見ての通り大変アンバランスな美しい少女達だ。女性的な柔らかいラインをもち、少年のようにスレンダーな手足を持ち、頭身は高く、手足は大きい。表情も、あどけない子供のようであり、大人びたようにもみえる。ユニセックスで年齢不詳、掴みどころのないような姿をしているのだ。
これを不気味ととるか、美しいととるか、それは見たもの感じ方に一存するだろう。
ボクは、文章でも絵でも人形でも、もっというなら曲だって、その作り手の生写しみたいなものだと思っている。荒木元太郎氏は、だから、ある部分ではユノア的なのだ、と思う。 ユノア的であるということは、一歩間違えば恐ろしい、危うい存在だ。そうあり続けることは、何者にも囚われない、捕らえてもらえない、認識されがたい、正体不明の、そしてやっと触れることのできた僅かな実感に満足を得て、また心を生めるような何かを捜し求めていくような、終わりの無い状態を意味する。
ロビン
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