カウントシープ
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神様に近づくことが、至上の喜びとされるキリスト教では、その賛美歌においても、その趣旨を含んだものが多い。有名な320番でも、主よ御許に近づかん、と歌っている。
神様の側に召されること、その日まで父なる神の教えに従い生きていくことが、根幹にある世界は、我々母性社会とは随分様相が違う。
我々のいる世界では、母なる存在に見守られ、繋がっていることが根底にある。しかし母とは時に取り込む、食うか食われるかの世界なのだ。 「食べちゃいたいほど可愛い」というのはまさにその通り、母性とは二面性があるため、我々はその、神様に相当する存在であるところの母親に対し、近づきたいと思うと同時に、取り込まれてはならない恐れを強く感じるのである。
そのため我々は、繋がりを感じながらも、鞘のようなものには収まれず、彷徨うことになる。しかしまた、父親なる神とてその腕に抱き取ってくれるのは死するときであるから、やはり魂は迷い子なのだ。
ボクの大好きな羊は、キリスト教においては信者の象徴とされ、導く羊飼いは神の子キリストとされている。そういう背景を知らぬまま、迷える魂の象徴とされるものを集め続けていたのだ。 ボクの手元に集まっている羊達は、散り散りになった心の雲のよう。でも、その多くは友人から送られたもので、散り散りになりそうになっても、他者からもらった心の繋がりが、しっかと結び付けていてくれる。
心の繋がりこそはこの世界における神様のような存在であり、それを具現化したもの、繋がりを双方向のみならず、絶対的存在として天に置いたものこそ、宗教そのものなのだと今の時点では思う。
ロビン
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