カウントシープ
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2006年02月24日(金) |
今生きているものもいずれは死ぬというのに |
考えてみれば、ボクはよくよく心が弱い。衰えていくものを見ることが辛いのは、自分ももた衰えていくものだからだ。
それは人間にとっては普遍的な恐怖であり、衰えていくことに反するように、外見を細工しようとして美容整形や髪の毛の移植を行ったりする。あるいは子供に未来を託し、自分のできなかったことをさせてみたりして、釣り合いをとろうとしていく。
それはひとつの理のようなものであり、よいとか悪いとかいう概念では人くくりにできないだろう。老いを受け入れていくことや喪失していくことを受け止めていくこと、其処に悲しみというものが欠落しているならば、それは大変にバランスが悪いことであろう。
いったい、長く生きていることがどれほどの価値があるのか。ボク達は、すでに死んでいる人のことを新しく知るときには、その人が死んだということにそう悲しまないが、今現在生きている人が、自分はまだ生きている時空間において死んでいったなら、少なからず悲しいと感じるだろう。
この感覚の違いは何なのだろうか?
同時代を生きているもの、という連帯感のようなものが、ここにはあるかもしれない。ボク達はまさに今の時代を生きていて、不安な感情を多いに抱きながらも、ここを理解している。他の時代の空気ではなく、この時代の空気を吸って生きているということには、何かしらのシンパシィが沸くだろう。
もし、浦島太郎のようにタイムスリップしてしまったら、やはり違和感に苦しむだろう。子供の頃はずっと、ここじゃないどこかにいけるならば、時代を超えてでも行きたいと思っていたけれど、ここを離れては生きていけないのではないか、と今は思う。
ロビン
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