カウントシープ
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人は思い出だけで生きていけるか?
あまりに早く先立たれてしまうと、まだ思い出は蓄積されず、むしろ長く生きられなかった同胞への思いが強いだろうし、しばらくをともにしたものならば、其処には寂しさがこみ上げてくるだろう。 長くをともしたならば、それはもう人生の共有者であり、それを失うことは半身を捥がれるようなものだろう。
半身を捥がれてしまっては、もう生きていくことは困難で、そうなってしまってからはもう誰も長くは生きていない。それほど深く愛したものならば、もう心も半分受け渡してしまっているからだ。
しかし、ここには、もう半分、相手が残していった心が残る。自分の心を半分与えたのと引き換えに、ここにかつては他者であったはずの心が残っていて、もう一度生気を与えてくれるのだ。
この、心を半分交換するという行為は、本当に愛していなければ成立しない。真実の愛でもって、初めて心は等分に行き渡るのであり、愛の模倣でしかないならば、心は動かないままだろう。
其処には、ただの喪失しかない。対象は自分の延長でしかあらず、きちんと他者として存在しておらず、半分どころがすべてを取り込んでいたために、死んでしまったものが何かもわからないまま、失った穴だけをなぞり生きていく羽目になる。 そうなればもう、悲しみは永遠のものとなり、癒してくれるものもないと感じる。
違うのだ、深い愛の果てには、悲しみを癒すだけのものがちゃんと心に備わっているのだ。深い嘆きのあとに、再び人が生きていくことを取り戻す。それは、もう一度愛するためであり、何を愛するかといえば、自分を取り巻く様々なものを、受け止めていくことなのだ。
だが、それが再びたった人の姿になりえるのかどうか、今のボクにはわからない。
ロビン
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