| 2001年11月26日(月) |
「銀の雨」「R.P.G.」「25時」の長めの感想。 |
銀の雨(宇江佐真理) 堪忍旦那と呼ばれる三十六歳の同心、為後勘八郎が主人公の時代小説である。堪忍旦那の由来はのっぴきならない事情があるときは罪科を堪忍してくれる、つまり見逃してくれるところから来ている。顔は悪いが人情味の厚い融通の利くやさしい同心なのである。しかし、登場人物の中で何よりもいい味を出しているのは子供たちではないか。大人顔負けの生意気な言動は爽快ですらある。人によってはむしろ癒しの薬になる。周りの大人たちの姿を見て健気に生きている男の子や女の子が見事に描かれている。出来すぎていると言うなかれ。その小さな魂の張りつめた心に素直に感動の涙が生まれてくる。やがて成長して大人になってゆく子供たち。現代でいうなら小学校6年生、中学生くらいの少年少女たちの上にも年月は流れる。主人公、為後勘八郎の娘小夜は十三歳ほどで登場し、最後の話の時点では十七歳の新妻になっている。その過程の逸話が丁寧に綴られていく。今よりもはるかに早く大人にならなければならない子供たちの全五話からなる連作集として読んだ。堪忍旦那が関わった四年間に起きた事件の捕物帳ではあるが、記憶に残るのは、子供たちである。小夜、ゆた、梅吉、みち、そして主馬。
R.P.G(宮部みゆき) メールによる親子の会話から始まり、次に警察署内の会議室における警察官同士の何かの顔合わせの場面になり、次に事件の概要が説明される。殺人事件の捜査が始まっていることがわかる。思わせぶりな始まりで引き込まれてしまうが、この作者の作品としては期待外れと言うしかない。しかし、思い込みや錯覚を利用して読者に先読みの快感をサービスしていくのは相変わらずでその点は流石である。ネット上の家族という最近の風俗を取り入れている点でも作者の先進性が出ていて文句がない。こうして改めて点検すると不満な点はどこなのかが曖昧になってくる。逆説的にこういうところに宮部みゆき(敬称略)の凄さの一端がある。語りの見事さに引き込まれてわき目も振らずに楽しく読んでしまいました。面白かったです。と、言うしかないのは確か。大長編「模倣犯」の語り口はこの作品でも生きている。今、宮部みゆきが語ればどんな話も魅惑的になり、ベストセラーになる。ここまで書いてきて自分の気持ちがわかった。ベストセラーになってほしくないのだ。この作品が「初の書き下ろし文庫」と宣伝された時「売れる」と感じた。それは不満だったのだ。実は読む前から不満があってそれに理屈をつけようとしていたのである。適度な長さで現代日本の一面を描き、退屈しのぎに調度よい面白さ。しかし、どうせ現代日本人心の闇を描くなら踏ん張ってあの「ウィルソン・シティ」を完成させてほしかった。
25時(デイヴィッド・ベニオフ) これはいつごろの時代の話なのだろう。刑務所に入る前日の若者とその家族や友人たちの行動や会話、独白が淡々と描かれてゆく。主人公の若者の生活や行動はもちろんしっかり説明されるが、恋人や親、友達についても結構詳しい描写が費やされる。印象的なのは、学校の教師をしている友人のエピソードである。教え子の女生徒との皮肉な落ちは読み終わってからも妙に心に残っている。最も愛情を以て描かれていると感じたのは主人公の愛犬ピット・ブルのドイルである。じっとしている姿、寝室のドアの前で寝ている姿、自由に走り回る姿、人間を描く以上の丁寧な描写である。結末については賛否もしくは解釈が分かれるに違いない。印象的な終わり方であり、魅力的な終わり方である。ハッピーエンドを求める人はそういう風に読めば良いし、シビアな結末以外説得力がないと考える人はそう読めば良いと筆者が言っている気がする。魅力的なわけはそれまでの地道な展開がビートに乗って一気にひっくり返される快感があるからである。地を這っていた蛇が突然大空の彼方に飛び去ってしまったような思いがけない驚きによる心地よさがある。それにしても小説でこう言うのもおかしいが、真実はどちらにあるのか。つまり、結末の部分にあるのか、それともそこに至るまでの物語の部分にあるのか。意外にモンティ爺さんのほら話だったりして。冗談はさておき、この結末からもう一度始めから読み直す行き方もあるだろう。殺伐たるところもある現代に生きる大人を1時癒すための寓話は何度読んでも汲むものがあるはずである。
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