カウントシープ
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| 2005年09月30日(金) |
ヴァイオリニストは爪を伸ばせない |
ヴァイオリニストは爪を伸ばしてはならない。弦を押さえるときに爪が長くては邪魔になるからだ。ということはおそらく、ヴァイオリンに限らず、弦を押さえる仕事はみんな爪を短く保っておくことになる。
ボクはもともと爪を伸ばす習慣がないから、何の問題もないし相方もしかりだろうけれど、きちんと爪を伸ばして手入れしているような人はちょっとした葛藤があるだろうな、と思ってみたり。ネイルアートなんてお洒落が流行っているくらいだから、ただが爪といえど、大切なポイントのひとつなのだろう。(つけ爪って手もあるけれど)
ボクはどうも爪というイメージは怖いと思っていて、爪の長い女性の手も、美しいというよりも怖いと感じるのだけれど、考えてみれば犬も猫もみんな攻撃する武器は爪と牙なのだ。
特に赤い爪って怖いと思うんだけれど、どうかしら?
今年の初夏に庭に手を入れたとき、木香薔薇の蔓を一株植えた。
木香薔薇は、蔓になって伸びる植物で、それほど棘もなく(棘はないと書いてあるけれど、少し棘?があった)蔓といっても粘着しないタイプのものだ。 ボクはわりと蔓系の植物も好きなのだが、我が家に這わすのは相方に却下されたので、アイビーはみんなポットに少し植えるだけにしている。それも、垂れ下がるタイプのもので壁は上らないものだ。 ボクは、蔓が絡み付いてどんどんと覆っていく様が、実は結構好きなのだ。建物は早く劣化するし、虫の住み心地もよくなりそうだが、どうにも心引かれるものがある。
そんな次第で植えた木香薔薇が、どんどんと蔦を伸ばしてポーチのアイアンに絡みついていく(手動で絡ませている)様をわくわくしながら見守っているのだが、まだ花を見たことはない。木香薔薇というくらいだから、きっと香りもするのだろう。花は5月か6月頃、まさに薔薇のシーズンに咲くそうだから、来年の初夏をとても楽しみにしている。
(関係ないけれど、木香薔薇って視覚的に人の名前みたい)
ボクには子供のころから日記を書く習慣がなかったから、こうしてネットで書く日記しかしらない。だから、ボクの日記は、常に誰かしらオーディエンスを意識して書かれている。
そもそも、書き記すということ自体が、自分自身を含めたオーディエンスを意識したものかもしれないが、自分ひとりでひっそり書いて時に見返すものと、ネットにあげたとたんに誰かしらの目に触れるのとは、ずいぶんニュアンスが違うだろう。 現在のところ、基本的には、日記にはある程度のことは書いてもいい、というスタンスになっているようだ(中にはレスができるタイプの日記もあるけれど)。そうして部分的な自分を他者に晒すことの目的は何だろう。
突き詰めて考えていけば、最後に残るのは、自分という人間を認めて欲しい、認識して欲しいという欲だろうか?人間にあるさまざまな欲求のうち、社会的欲求の占める割合はけして少なくない。 自分で自分の鏡だけを見て満足していられるほど、ボク達は完全なるものではないのだ。
| 2005年09月27日(火) |
アローン・イン・ザ・ダーク |
昔、『アローン・イン・ザ・ダーク』というゲームがあった。内容的にはバイオハザードみたいに、少しホラーっぽい屋敷を探索して脱出するのだが、これがすごく面白かった。 このゲームはかなり有名なのだが、当時マイナーなゲーム機か(3DO)パソコンでしかプレイできなかったため、一般的にはそれほど普及しなかったのかもしれない(といいつつ検索したら沢山ヒットしたけれど)
このゲーム、今見るとすごく荒いポリゴンでできている。昨今の大発達した3Dのグラフィックに慣れてしまうと、とても見づらい代物だが、当時はかなり斬新だった。しかし、それ以上にこのゲームが魅力的なのは、謎解きが大層難しいことだ。 ちょっとでも間違うとすぐに死んでしまう、大変難易度の高いゲームなのだけれど(攻略本を見るまで結局クリアできなかった)、解けるとああ!と思うようなパズル的要素が多いし、倒せない敵の方が多いのだが、その回避の仕方もユニークだ。 また、洋物ゲームらしく、敵がかなり不可解で、何者なのかわからないままのものも多かった。例えばバスルームを占拠しているクラゲのお化けのようなものは、倒せないし、追いかけてもこない。近寄ると毒をかけられるけれど、そこにただいるだけ、それがかえって不気味なのだ。
もう一度ゲームしたいけれど、機械もソフトもないから、できない。
昨日の猫は、結局月曜日の朝まで、家の前にいた。隣の喫茶店の店員さんが、新聞紙に来るんで小さなダンボール箱に入れて、イチョウの木の下においておいてくれたのだ。
日曜日、市役所に電話したら、週末はとりに行けないと断られた。付け加えるように、「1番いいのは生ゴミで出してくれるといいんですがね」と言ったけれど、そんなことできない、と思った。生ゴミに猫の死体が埋もれているなんて、もし何かの拍子に子供達が発見したらと思うと、そんなショッキングなことはしたくなかった。
朝、普通の一般ゴミが回収されたあと、まだ箱が残っていたので覗き込んだら、マジックで「ネコ」と大きく書いてあった・・・と相方に聞いた。 ボクが返ってくる頃には箱はなくなっていたけれど、この後どうなるんだろうね、と話した。
日曜日の夕方、母親からメールが来た。実家で飼っていた猫が死んだ、という内容だった。猫はアメリカンショートヘアで、縞模様の小柄な猫だった。猫にしては早く、まだ8歳だった。 ボクは、昨日の夜の子猫が、まるで実家の猫のように思えてならなかった。縞模様も良く似ていたし、まだ抱いたときの暖かさや、毛並みの柔らかさが掌に感触として残っていて、それが何度も蘇るようだった。
母親は、猫が死んで寂しいと書いていた。それがボクには嬉しかった。ボク達と一緒にいた頃は、母親が胴思っているかを顕すような言葉は殆ど聞けなかったから、こういう言葉を聞くと、母親の中にちゃんと心があったのだと思えて、それはとても救いになるのだ、と思う。猫は、数年前に死んだ猫の隣に埋めたらしい。それまで死者を弔うことの無かった母親の心に、今は猫が住んでいる。
猫が母親に教えてくれたことは計り知れず、ボク達人間の子供では無理だったのだと思うと、少し寂しい。ボク達は、猫になれなかったのだ。
土曜日は朝からハードな仕事をしていたので、帰って来てすぐに寝てしまった。2時間くらい眠って、ふと目を覚ますと夜中の12時。相方も眠っていたらしく、3頭の犬の6つの目が、「おなかがすいたよう散歩はまだかなぁ」と訴えていた。 ボクは凄く疲れていたけれど、疲れすぎて妙にハイテンションで、よし、少しだけ散歩に行こうと思って、12時半頃に散歩に出かけた。近くの駅まで歩いていって、40分くらいして戻ってくると、家の前の車道に猫が一匹、倒れていた。 散歩の前にはいなかったから、この数十分の間に車にはねられたのだろう、近寄ってみるとまだ子猫だった。茶トラで、ひょっとしたら夏からこの近所をうろついていた2匹の子猫の片割れかもしれない。 まだ綺麗な形を保っていたけれど、このまま車道に転がっていればぐちゃぐちゃになってしまうことは目に見えていたから、とりあえず家の前の歩道まで運んだ。 猫はまだ暖かかく、死後硬直も起こっていない、柔らかいままだった。出血も少なく、おそらく頭を強く打って即死だろう、と思った。持ち上げたときに眼球が飛び出してきて、死に顔がこれでは可哀想に、と思ったけれど、眼球を元に戻す勇気は無かった。
犬達はポーチに入れておいたのだけれど、猫に興味を示し、首を長くして見つめていた。翌朝になって、冷たくなった猫には見向きもしなかったから、犬にも完全に死んでしまったことが解るのだ、と思った。
普段から結構忙しい仕事をしているけれど、その忙しさの3倍くらい忙しい研修を受けに出かけた。2日セットになっていて、内容は盛りだくさん、1日目だけ終わった今もすっかりぐったり。 普段の仕事は責任が重大なので、その点研修は学ぶばかりで気が楽だったけれど、課題提示&ワークショップ&発表の繰り返しで、最後はマイクを片手に呂律が回らなくなっていた。
ただ、頭をフル稼働して情報を整理し再構築するという作業は純粋に面白い。時間と人数のプレッシャーもまたいいカンフル剤みたいなもので、これがのんびりとマイペースでやっていては、この面白さは半減するな、とはちらりと思った。
すでに獲得したもの、知っているものを想起するプロセスと、機知のものを組み立てなおし、情報を整理し、新たな理論を作り上げるプロセスは違う。新たに組み上げていくことには困難さが付き物で、キチンと再構築できるか不安だらけだけれど、出来上がったときにはゆるぎない理論として、自分の中に叩き込まれていく。それは外部に提示され取り入れただけのものとは圧倒的に存在感が違うものだと感じた。
一方、すでに答えが示されているものを取り込んでいく場合でも、自分の中で体験し、再検証することで、確固たるものとなりうることは確かだが、いずれにせよ、新しいものを発見し、自分の中で組み立て一部となっていくことはいくつになっても面白いものだ。
相方がオウムを飼いたいと言ったら、友達がみんな反対した。大型のオウムやインコは大変だ、というのだが、どう大変かという助言を…
�,箸砲�く長生きする。60歳とか平気で生きるので、二世代で飼うことを念頭に入れる。
�⇔更圓帽圓韻覆ぁ�移動が大変。水島のように、肩に乗っけて移動するわけにはいかないのだ
��とても嫉妬深い。犬なんて飼っていたら、嫉妬で大騒ぎする これでノイローゼになったヒトもいた。
�,鉢△浪燭箸覆�解っていたけれど、��の嫉妬深いっていうのは本当かな?鳥に独占欲みたいなものがあるのかしら?(鳥を良く知らない無知な人間の発言として聞き流してください) 犬が嫉妬するというのは解る気がする。時々、小型犬の飼い主さんが、他所の犬を触っていると、吠えて怒ったりする場面をみるし、猫だってヤキモチを妬くのだから、案外嫉妬という感情は、人間を超えて普遍的なものなのかもしれない。 でも、動物は、あいつのほうが沢山もっているから悔しい、といった嫉妬はしないし、あいつは足が速くてうらやましい、という感じもなさそうだ。今、自分の依存対象が自分に関心を向けているか、ということにおいて、敏感に感じとり、自分に向けようとするように感じる。
それは、力の強いものに守ってもらいたいという感覚なのか、人間の子供達だって、守ってもらえるという安心感の中で健やかに育つのだから、少しは当てはまるのかもしれない。
いつも忘れてしまうのだけれど、今月は母親の誕生日があった。
子供の頃は、誕生日を祝う習慣がなかった。 ボクは誕生日が近くなると、気持ちはそわそわするけれど、どうせ何事も無かったように過ぎることも知っていたから、誕生日が近づくと憂鬱だった。欲しいといえば何かひとつ買ってもらえたけれど、おめでとうの言葉はなかったから、誕生日が何の日かはピンとこなかった。
そんな調子だから、今でもボクは、生まれてくるということについての喜びってものが理解できない。生れ落ちたら、苦しいことや寂しいことがいっぱいなのに、どうして「おめでとう」って皆言うんだろう、ってずっと思っていたけれど、 おめでとうと言う言葉が言える人たちは、きちんと祝福され愛され、あるいは愛される経験は少なくても、その中で与えてもらった優しい出来事に目を向け、気づけた人たちなのだ。
そこまで気がついたのに、今でも母親の誕生日を忘れてしまうのは、ボクが母親に何かをプレゼントしても、母親からは返ってこないって解っているからで、それを寂しいと思っているうちは、このセレモニーを回避するという仕組みになっているのかもしれない。
毎年、来月の父親の誕生日が来ると、ボクは2人の誕生日を思い出して、2人分のプレゼントを抱えて実家に帰る。誤解を招くようなクダリだが、最近の母親はお金はくれる。何か買いなさいといってお金をくれるけれど、ボクが何が欲しいかを想像して、選んでくることができないだけなのだ。
多分、母親だって困っていた。子供が何が欲しいか、さっぱり想像できなくて、子供が不気味な存在として捕らえられていた。ボクは母親を苦しめる存在であり、そうなっていることを知っていて、そうならないように振舞おうとしたけれど、やっぱり心の中では望む自分がいて、今も時々心の片隅にいるのだ。
子供の頃は結構食べたけれど、大人になってからはフルーツってそんなに食べない。1人暮らしのとき、一個だけ買うのが高いし、1人暮らし用の小さな冷蔵庫には、林檎4個パックなんて無理だったりとかで、買う週間が薄れたのもある。 果物の好みは、2人で結構食い違っている、というのが最近買わない理由だろうか。
◇ボクの好みは・・・(購入意欲があるもの) イチゴ 林檎 プラム ◇相方の好みは・・・ 梨 葡萄(巨峰)バナナ このほかに、沖縄から送られてくるマンゴーがある。
こうして並べてみると、ボクは甘酸っぱいものが好きで、相方は甘いものが好きなようだ。
フルーツは全般的に好きだから、何でも喜んで食べるのだけれどね。たびたび語る「掛川花鳥園」のオニオオハシが、カットされた南国フルーツを食べているのは、妙に美味しそうに感じた。鳥の食べ物もさまざまだろうけれど(例えば虫を食べる鳥もいるし)、何だか恵まれているように感じたなぁ。
※タイトル全然関係ないけど、こういう名前の遊びがあったよね。椅子取りゲームみたいな遊びだったように思うけれど、違ったかしら?
別のサイトでブログを使ってみた。ライブドアのブログだったのだけれど、これが凄く入りにくくって、何度ログインしても弾かれてしまう。2ついっぺんに取得したのだけれど、二つともが同じ具合だ。
一週間ぐらい我慢していたけれど、あんまり使えないので、思い切ってライブドアに直接メールを書いて文句を言った。案の定、これこれを確認してください、とメッセージがきたが、そんなことは実行済みだった(例えばノートンのレベルを下げるとか)
しかし、その日からログイントラブルはなくなった。 今までと同じようにIDとパスワードを入力して、スムーズに入れてよかったよかった、ということなのだが、これ、一体どういうことなんだろうね。 ライブドア側で何かをしたから入りやすくなったのか、とか色々考えてしまった。
ブログって面白いけれど、ちょっと重いのが難点だ。
土日と蓼科にお出かけしてきたので、今日は1日ぐったり。犬達も走り回ってぐったりだった。犬も筋肉痛になるのか、いつも引っ付き虫の2人組みも、今日は目玉だけ動かして人間の動きを見るに留まっていた。
ボクもぐったりながらも、ヴァイオリンのほかに、コツコツと裁縫もしてみたりした。今回の旅行で、犬の服を作っている友達に会ったのだが、そこでミシンの話ができて超楽しかったのだ。
ああー裁縫友達が欲しい!って真剣に思った。人形の服を一緒に作ったりする友達がいたら楽しかろうに、とか想像してみたり(殆ど妄想)。ためしに相方にお誘いをかけてみたけれど、あんまりノラなさそうだった。 どちらかと言うと趣味が男性属性の相方は、それよりはヤスリをかけたりエアブラシしたりするほうが好きみたいだ。
人形に限らないけれど、自分でやってみたいことって、手を出したらキリがないね。本当は天蓋ベッドの蚊帳も自分で作ってみたいけれど、そんな大きな布なんて、何処に行ったら手に入るのか、全然解らないし、 自分達のもので作れそうなものといったら、せいぜいランチョンマットくらいだろうか? 大好きな細い縞々の生地、ランチョンマットにしようと思って手ごろなものを探しているけれど、なかなか見つからないし、人形の屈したように細かい綿ジャージのボーダー柄を探しているけれど、こちらも見つからないし。
大きな生地屋さんに行きたいな。ネットショップとかでないかなぁ。
蓼科に旅行中。 昨日泊まったペンションで遭遇したもの、それは「蜂の子」。 何気なく突き出しのお皿に並んでいたので、ナッツの佃煮かと思って油断していたら、友達が「羽があるよ」とか気づいちゃってさあ大変。しばらくみんなでつついていたが、結局ボク以外は皆口運んでいた。皆チャレンジャーだよ。
翌朝ゲレンデ(※当然ながら雪はない草原のゲレンデ)に犬を放しに行った。また少し上のほうで鹿の糞を見かけたけれど、夜中にこんな人里まで鹿が降りてきて草を食べているのだ。こっそり見てみたかったい。そのときは犬達が鹿を追いかけていかないように、しっかり押さえ込まなくっちゃいけない。
田舎にいた子供の頃、家に帰る途中、田園の中に小さな林があった。その傍を父親と一緒に通るとき、「あそこには鹿がいるよ」と教えてくれた。僕はまだ5歳前後で、鹿を見つけることができなかった、のか、それとも見かけたのか。 ボクの中には、木立から頭を突き出し、此方を見つめるオスのシカのイメージが残っているが、これが現実にみた光景なのか、ボクの中で作り上げた光景なのか、解らない。 「鹿は一人ぼっちなの?」と尋ねたことは覚えていて、それに対し父親がなんと答えたのかも忘れてしまったけれど、ボクの中では、鹿はきっとツガイで林の中に住んでいるのだ、と思った。
鹿ならぬヤギの群れ(違う)。
ロビン
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