多くの場合の【わからない】は、本人に知る気がないことに起因する。 なーんて意味深なことを言っても何の解決にもなりません。 でも、そもそも解決する気なんて、健康な人の血液ほどサラサラありません。
ある友人が「絶対値の意味がわからない」と意味のわからないことを言い出したり、「NANA」という漫画が読んでみたいと思ったりする今日この頃。
↓買い物 夕方、映画館で「マトリロ」のパンフレットを購入した。 レジ付近まで行くと、店員のお姉さんがチケット売り場の方からやって来た。 グッズやパンフレットを買うところと、チケットを買うところは若干距離がある。 僕は「マトリロ」のパンフはいくらするのか?とレジの横にあった値段表を見た。 (900円かぁ) あれ?財布の中には確か小銭で1000円にも足りないハズ、と思った僕は、一度レジを離れ、レジに背を向けて財布を確認した。 何とか足りていた。 買うことを決めて、再びレジへ足を運ぶと、お姉さんはもうチケット売り場の方へ戻っていた。 滅多にグッズやパンフを買う客がいないからだ。 レジの前に立ってもしばらくこちらへやって来る気配がなかったので、僕は視線をチケット売り場の方へ向けて、催促した。 すぐにお姉さんは来て、僕はそのパンフを買った。 そしてその時、パンフ以外にオマケが付いてきたことに気がついた。 それは貧乏人というレッテルだった。 確かにそうなのだが。 じゃあレッテルじゃなくて、そういうイメージが付いた、とでも言えばいいのか?
↓漫画 さっき漫画の話が出たのでついでに。 最近ほとんど漫画を読まない。 ある少年誌の漫画を途中まで買っていたが、続きを買ってない始末。 (でも「20世紀少年」は揃えたいな。青年誌だけど。) それでも希に漫画は買う。
あと、基本的に絵がうまい人には嫉妬するので、漫画が嫌いってのもある。(半分冗談)
最近では「真っ赤な東京」。(常盤雅幸著) これは4コマ漫画で、小説すばるという雑誌に連載されていたものらしい。 かなりマニアックな代物だろう。 何の自慢にもならないけど。
でも、マニアックなものとそうでないものの差なんて、ほとんどないだろう。 あるのは、知るきっかけが多いか少ないかの違いではないか? そんなのは些細なことで、いいものはいいのである。
一見マニアックなものの中には、メジャーな精神のものもある。(メジャーな精神とは、私的には客観性にあふれ、わかりやすいもののことだと思う。) まぁソレが載っていた雑誌、近所の本屋にはないもんなぁ。
少年誌で純粋に楽しめる漫画の類も嫌いではないけど、ソレを見るなら僕はクドカン(※官藤官九郎。脚本家であり演出家であり大人計画所属の劇団員。テレビで俳優としても活躍。)が脚本を担当している連ドラ見ればいいもんなーと思うし。 実写の方がリアルで好きだもんなー。
それにしても、少年誌の漫画って、画のタッチが作品や作者を越えて似ている。 数が少ないからか?(青年誌のソレより) 実写のドラマも、そういえば似ている。 いつの時代でも、その中で目立っているような、違う感じの新しいものが、そうでないもののクオリティも引っ張っていくと思うので、そういうものに期待てるし、見ていきたい。 単純な話、同じ画だと飽きるからね。
↓ドラマ 連ドラは、アニメより独特の<画>を手に入れるのは難しいと思うけど、それでもソレを手にれた希なドラマは、印象に残るし、面白いと思う。 独特の雰囲気こそが、ストーリィと同等にそのドラマの命であると言える。 僕がソレを感じたのは、「ケイゾク」と「池袋ウエストゲートパーク」の2つ。 この日記では何度か出現するタイトル名である。 ストーリィは小説でも語れるので、映像作家には、怖れることなく面白い映像を持ったドラマを創って欲しい。(ケガは承知の上で)
上の2つの作品は、堤幸彦というおじさんが演出した連ドラである。 この人の名前も幾度となく出現している。 それだけ僕の中では印象深い人ということ。
↓両氏の手法 ここでクドカンと堤幸彦の両者の名が出揃ったので、言いたいことがある。 両者には、はっきりとした共通項がある。(もちろん私的な指摘ではあるけど) それは、現実感のない世界観を構築しつつ、その中に現実的な感動を出現させる(ストーリィの終盤に)作風であるということ。
堤氏は脚本は書かないらしいが、勝手に自分で考え出したギャグを登場人物に言わせ、ある程度脚本のキャラに肉付けするらしい。 その塩梅がアクセントになるのだが、そうすることで、きっと脚本段階ではシリアスであったろうものはギャグっぽいものになる。 クドカンの脚本は、初めからそういう感じである。
↓逆転 ギャグの中のリアル。 それは、今までのコメディドラマとは逆の構造である。 今までのコメディは、シリアスな場面が初めにあってから、ギャグの部分が生きてくる、というものが定番である。(例えば寅さんだろうが、無責任シリーズの植木等だろうが、主人公以外の周りの人間はまともであるから、先に挙げた両者の作風とは違う。)
この際は今までの手法と、両氏の手法と、どちらがいいか?という問題ではない。 ただし、明確に感じることがある。 より、見るものに安心感を与えることに、クドカン、堤氏のソレは成功している気がするのである。 それはどういうことか?
シリアスが基盤で、その中でギャグが生きるタイプのものは、ギャグで笑えたとしても、その後の余韻の中で、ふと、「あぁ、でもみんな普段は真面目なんだよな、普段は」と反動で暗い気持ちになってしまうのである。 あくまでも反動で、である。
しかし、自分の普段の生活に置き換えると判るが、かえって真面目であることが当たり前で、むしろふざけていたくない時の方が多くはないだろうか?(真面目にふざける場合を除いて) ということは決して真面目であることは悪いことではないハズ。
普通のコメディを観ていて僕は窮屈に思うのは、1つのギャグの後に真面目になるシーンである。 あ、さっき笑えたけど今普通なんだ、と、さっきのギャグのためにシリアスは存在していたことを感じ、冷めてしまうのである。 その冷めた思いが、真面目であることを窮屈に思わせてしまう。 笑いのための、ギャグのためのシリアスは、前座なのかぁ、と、ガッカリするのだ。
そうして自分の中の<真面目>という言葉のイメージが、ドラマの基盤のシリアス部によって、<つまらない>という気持ちに変貌を遂げてしまう。 ただし良質のシリアスには、緊張という快感を覚えることができる。 コメディにしろ感動ドラマにしろ、良質ならば、文句はもちろんない。 そういう作品が大多数だし、そんな作品の中にも私的にはたくさん好きなものがある。
↓マイノリティの世界 反対に、普段から客観的に見て現実感のない、変な世界観のドラマであったらどうか?
普段バカみたいにギャグばっか言ってて、時にシリアスに戻り感動もする世界。 もしくは明らかに主人公らが変わり者で、社会から逸脱しているかのような、マイノリティなキャラで登場する話。 そっちの方が、ラクそうでいいイメージがないだろうか? 現実ではそうはいかないし、仮にそういう世界があっても、普段からギャグっぽいことをしているのは体に無理をしている感じできっと辛いだろう。
しかし、ドラマは現実ではない。 そういう意味で、クドカンや堤氏の作品は、ドラマでしか体感できない楽しさを提示している貴重な代物だという気がする。 ついでに言えば、僕の好きな「ホテル・ニューハンプシャー」や、「サイダー・ハウス・ルール」「ガープの世界」という小説や映画(原作はいづれもジョン・アービング著)の世界観もそうだと言われているし、僕もそう思う。
まとめて言えば、両氏やジョン・アービングの作風に共通することは、タッチは違えど、どこかシュールであるということ。 そんな作風に紡ぎ出されるマイノリティの中に見える希望に、僕は面白さを感じているのか? ということは、自分はどちらかと言えばマイノリティなのか?
もちろん好き嫌いがあるだろうし、好きでその世界観に入っていけなければ、両氏のソレは楽しめないだろうが。 でも、そういうことが、簡単に言えば主人公らのマイノリティさが、先に言った安心感を僕の中に与えるのだろう。
喩えるなら、僕にとって従来のコメディやその他もろもろのドラマは<タバコ>の作用があり、クドカンと堤氏のソレは<酒>のような作用があるのかもしれない。 どちらも欠かすことの出来ない税金知らずの嗜好品である。
―END―
|