「映画『ゴスフォード・パーク』より使用人の名言」 (※ネタバレ注意!) ・パーフェクトな使用人に人生はないの
この言葉、重みがありました。 映画のストーリィの舞台はある富豪の館。 そこに様々な招待客がやって来て、パーティが催され、その夜一つの殺人が起こった。 実は(若干ネタバレですよ)、このセリフをはいた使用人が犯人なのですが(犯人であることが探偵役のキャラにバレてからのセリフなので、あまりネタバレにならないかも。それでも使用人が犯人である、と絞られるわけだが。ただ、登場する使用人多し。でも<パーフエクト>の一言で特定できるかも。やっぱりネタバレだsな、これは)、この犯人である使用人にこのセリフを言わせたくて脚本を練った可能性大である。 それだけ、このセリフがこの映画では重要なものとして響いていたということ。 確かに、尽くすだけの人生なんて・・・ それも仕事で。 あぁ、かわいそうな犯人。
「小説『笑わない数学者/森博嗣』の第4章のタイトルの副題の名言」 ・残念ながら、観察者と独立に存在するものは、定義できないゆえに、存在しない
実に哲学的な表現だと思う。 <独立に存在する>という部分が曲者である。 どうやってそれを<定義>するのか? それを言ったらお終いである。 僕としては、どういうものが観察者と独立していると言えるのか?を想像するのが面白い。 ソレが見えなければ独立しているのか? 触れなければ独立しているのか? そんなこと考えるのが面白い。 そしてそれを考えさせるからこそ、この言葉は名言なのだ。
「同じく小説『笑わ・・・の第11章のタイトルの副題の名言」 ・十万桁まだ計算されたパイに人間性がないというのですか?人間以外に誰がします?
これを読んだ時、何かからの開放感があったような気がする。 その<何か>をあえて言うなら、それは<人生>である、とでも言っておこう。 人間にしかできない事、そして自分にしかできない事があり、それをする事が人間の存在価値であるのだ、と言っている気がする。 それにしても、なぜ己の存在価値(またの名を<生き甲斐>とも言う)を人は求めようとするのだろうか? 楽しい、とか面白い、と思えることを求めるのが本能だとしたら(これも、一つの定義)、存在価値を認識することは、そういった感情を持てるかどうか、ということとイコールなのか?
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