ヤグネットの毎日
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2002年11月10日(日) 「ぷちナショナリズム症候群」感想

 午後から、来年のいっせい地方選挙にむけての打ち合わせ会議があるので、午前中は、その会議への政策論戦問題での報告準備にあてる。夜は党議員団の来年度予算への要求項目についての打ち合わせ。
 そのあと、次の日に計画されている「横まくづくり」の仕込み作業。

 決算委員会とファミリーコンサートの準備で多忙になっている。多忙なことはまったく苦にならないのだが、ゆっくり本を読んだり息子に向き合う時間が少なくなるのが残念なのだ。本を読まない、読めないのはじっくり物事を考えることができなくなっている「黄色信号」なのだ。僕の場合。

 この前読みおえていた「ぷちナショナリズム症候群」香山リカ著(中公新書ラクレ)の感想を書いておく。

 積極的な愛国主義者でもないが、「ニッポン、好き」とためらないなく答える人たち、あるいは現象を「ぷちなしょなひとたち」、「ぷちなしょな風景」とよぶ。
 齋藤孝氏の「声に出して読む日本語」がブームになったが、戦時下の愛国詩朗読運動と同じではないか、と首をかしげる人がいる一方、若者の多くは、過去の歴史と「切り離し」て、スポーツ感覚で受け入れる。
 それは、小泉首相の息子である小泉孝太郎氏などが、あっさりと父親への尊敬と愛情を表明することに象徴されるような、「エデュプス神話の崩壊」ともあい通じるものがある。「父親のコネ」を利用することへの屈辱や父親への屈服など、みじんも感じさせず見事に「切り離し」がされている、という。
 ここには、社会の変化というよりも、「人間の心の仕組みの本質的変化」(著者)が潜んでいるのはないかーー著者は、問題を提起する。

 著者は第3章で、日本は「本当のことを言える国」か?と疑問を呈する。この章を読むと、この疑問は2種類に分かれているのではないか、と考えた。
 まず、著者は、精神科医でシンガーの北山修氏の著書を引用して、次のような論が展開する。
 日本人には、天皇という「母親的なもの」に対して、その保守的な秩序を破壊しようとするものの首をはねようとする、「番人役」としての警察権力=“見えないエデュプス”が存在する。「言いたいことをいうと、追放されたり、たてつけば殺されるかもしれない恐怖を常にもっている」(きたやまおさむ「みんなの深層心理」)からこそ、国民は、番人がみていないところでは、適当に遊んでもいざというときにあは、みんなで整列して右をむいてしまう。エデュプス的構造が厳として残っている。だから、日本は本当のことを言える国か?これが、一つだ。
 あれこれと思い悩むことをせずに、いまだけを楽しみながらこの屈託なくいきていくためには、「分裂と解離」は必須の武器かもしれないーー精神科医である著者は、少々専門的な用語でこう述べる。
 「分裂と解離」とは、こういうことだ。分裂とは、個人が感情状態を相反する二つの領域に明確に分断することで、葛藤やストレスに対処すること。解離とは、葛藤やストレスをふだんは統合されているはずの意識、記憶、自己同一性、環境についての知覚を分断、細分化することで、対処することだ。
 著者は、病理システムの一つとしてみられていたこれらの現象が、「社会のなかで大きな問題もなく暮らすふつうの若者にまで普遍的になりつつある」とみる。ちょっとした葛藤や面倒くさいことをさける時の手段として、若い人のあいだでふつうに使われている、というのだ。
 ここで、著者の不安が集約されて述べられる。

 「若い人があまりもあっさりと口にする『ニッポン大好き』との言葉を彼等の真意として鵜のみにしてよいのか?もしかしたら、それは彼等が本当に言いたいことではなく、『よい』と『悪い』に極端に分裂させられたうちのひとつ、あるいは解離してもともとの人格と無縁の《私》が語っているだけの意見ではないのか?」

 そして、第4章では現代日本においては、階層化が進行しており、それが「収入や入る学校といった現実の格差にとどまらず、人生に対する価値観や、イデオロギーの差さえ生み出す可能性がある」と著者は述べる。
 そして、「目の前の現実をそのまま価値判断なしに受け入れる」人間が相対的にハイクラスな階層に入る知識人や経済人の間にも、あるいはそれとはまったく対極に存在することになる「ロー階層」のなかにも増える傾向にあるのではということが述べられる。しかも、この二極化の傾向は、中間層をますますなくしていく。
 経済的に安定している人間は、ますます経済投資そのものを「楽しみ」、エリートであり続けるためにナショナリズムへの道を選択し、「ロー階層」は現実をありのままに受け入れる傾向を強め、無自覚のままナショナリズム」に流れ込む。
 いま、ひそかなブームとなっている「ニッポン文化」「和の文化」が、たんなる文化的な嗜好の範囲なのか、それとも社会全体で奥深くすすむナショナリズムへの入り口としての「ぷちナショナリズム」なのか。
 
 我々は、弱肉強食の「新自由主義」のイデオロギーが、ネオナショナリズムをあおることでますます自らの影響力を広げる危険性をもちあわせていることに、意識的、自覚的に批判の目を向けていくことが大切なのだろう。そんな感想を本書を読み終えて感じた。
 
 


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