日記
日記です。なんかあれば書こうと思いますです…。

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2006年12月02日(土) 宇宙の裏


大学の講義で宇宙はメビウスの輪みたいな形をしているかもしれないんだと。

教授のそのまた教授がみた映画のストーリー例で説明してくれた。同じようなものだと…小学生のときにみた「どらエモン」の話で,内容的には教授のそのまた教授がみた映画よりもよりハードなものになっている。

内容は,宇宙をまっすぐ1直線にすすんでいったらどうなるかという話。地球なら球面の形をしているから世界の表面を一周して戻ってくる。では宇宙ならどうなるのか。

教授のそのまた教授がみたらしい映画の話では,2人の男がロケットを使ってそれを実行する。どらエモンの話でも,どらエモンがのびた君に頼まれる形でポケットの中から宇宙船をだしてそれを実行する。結果も同じで,地球にたどりつく。

ところが,地球にたどりついてみると,その世界がなんか違う。教授の教授がみた映画では世界の左右がまったく逆転している。どらエモンの世界ではもっとハードで,のびた君がのび子ちゃんになっている。どらエモンが猫型ロボットからたぬき型ロボットになっていて,さらに使えない奴にもなっていて,「空飛びたい」と頼むとたけコプターではなく空が飛べない「たけのコプター(頭のてっぺんにはりつくただのたけのこ)」を渡す。しずかちゃんも当然しずおだか男になっている。どらエモンの世界では先生がえらくえがかれるが,逆転して先生が生徒にぺこぺこしている。地球そのものも北海道の口が右をむいているはずが左をむいている。

教授の教授がみたらしいその映画の題名は不明だが,どらエモンの話についてはこれ

オチとしては,映画のほうでは,帰還を2人の男も歓迎してくれた周りの人も,左右反対だと何かと不便で,男たちはここは地球ではないのではないかと疑いはじめ,まわりの人もこの人たちはどっか別のところからきた宇宙人かもしれないと,帰還をすすめる。男たちがくるのに使ったロケットがこわれていたので,まわりの人が新しいロケットの部品を調達して,これ使いなよと渡す。しかし,その部品も左右逆で,ということは男たちも左右逆に回路をつないでしまって,短絡がおこり,いざ点火したら爆発がおこり男たちは死んでしまいましたというもの。

どらエモンのほうも通していいたかったことは,2つの世界をとおして,この宇宙にはすべてが正反対になっているパラレルワールド(もう1つの宇宙や地球)が存在すると述べられている。ま,ゲームでもそういうテーマのやつあるよね。クロノクロスとか。

で,教授のそのまた教授,また,アインシュタインなどはそうではないと考えていたらしい。つまりそういう解釈ではなかったらしい。映画なのでいろんな解釈があっていいんだが,彼らのは考え方もまたぶっとんでいてクールでよいと思う。

彼らによると,宇宙というのはメビウスの輪のような形をしている。だからそういうことがおこったんだという考え方。メビウスの輪というのは…一般にリボンの端点と端点をむすんだものをリングという。メビウス・リングとは,(当たり前だが)リボンには表と裏があるんだけど,一方の端点を一回ねじって一方の端点につなげたリングのことだ。こんなの

そうするとリボンはねじれている。で,ここでストーリーのとおりある一点からリボンを直進する。普通のリングだと表面を一周して戻ってくる。しかし,このメビウスリングでは,端点の表と裏で接着してあるのでねじれが存在し,リングを普通に一周するとその地点の裏に到達する。もう一周するとやっとその地点の表に到達する。

つまり,宇宙がメビウスの輪だとすると「宇宙の裏」というものを考えないといけない。さっきのストーリーだと,もし宇宙がメビウスの輪だとすると,2人の男やのびた君たちは,最初にみつけた地球らしい星というのは,地球を宇宙の裏側からみてしまったということになる。ということは地球でおこっているあらゆる現象を,逆の視点からみつめてしまったということになる。だから映画のほうでは,実際にはその星は地球だったんだけど,逆からみているから左右反対なんだ…ととらえることができるし,どらエモンのほうではもっとぶっとんで性別や社会的立場,学校への道のり(次の角は本来は右だが彼らからみれば左)を逆にみてしまったということになる。

どらエモンの作者のフジコ・F・フジオはきっと,ネタにつまってこの映画をみて,ある部分をよりハードに,結論を子供むけにソフトにしてパクったのかもしれない。

もしそれが本当だとすると,どうなるんだろうか…。自分たち自身も世界を作ることはできる。具体的には数学で考えられることが多いが日記で書くには色々と難しいので,よりわかりやすい美術や音楽などの芸術で考えよう。美術でえがかれる絵や作曲される音楽もその人が考えた宇宙である。たとえば明るい(長調の)音楽という宇宙を考える。なぜその音楽が明るいのかというと,あえて暗い(短調の)フレーズや和声を使っていないからだ。ということは,その宇宙の裏は短調ということになる。わかりやすくいえば長調の反対は短調であると勝手に考えただけの話だ。長調の立場からみれば短調は逆だが,短調の立場からみればお前のほうこそ逆だという話しになる。美術でも白の反対は黒とするなら黒の反対も白だ。つまり,その逆があってはじめてその事象が成立していることになる。

実際の裏の宇宙を考えると,これはすごく難しい。表の宇宙は時刻0→∞(多分∞ではなく有限だろうが)にむかって変化しているんだろうが,裏の宇宙では(∞(多分∞ではなく有限だが)→0)にむけて変化していることになる。こう考えるとどらエモンの世界どころではないおそろしいことが裏の宇宙でおこっていることになる。

僕ら生物の一生はまず死から復活し,より若返るほう若返るほうにむけて成長し,赤ん坊になって死ぬことになる。セックスすら,赤ん坊が女性の体に入るという結果ありきで行われるし,なによりセックスそのものも気持ちいいときからだんだん気持ちよくなくなるところへ出発することになる。勉強も頭がいい完成された地点から頭が悪いほうへ進む。なんておそろしい世界だ…。

ただ,こう考えると,宇宙が広がっている意味なんかも説明できるという。いわゆる宇宙の方程式を考えると,正負の符号をただ反転させた宇宙というのも存在しているはず。つまり,絶対零度があるから灼熱地獄みたいなのがあるみたいに,今の宇宙があるということは,その裏に今でない宇宙があるからということ。

宇宙が時間に従って変化して広がるということは,同じようにその裏で時間に従って縮むということを意味する。

ということは,宇宙は常に変化しているようにみえて,何も変化していない,常に一定の存在だといえる。

ではでは。

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