Mother (介護日記)
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今日も銀行は忙しく、先週に続いてヨーグルトとお茶だけで閉店までを載り切った。
昼頃、家に電話をしたけど、母は出なかった。 トイレに入っているのか、干し忘れた洗濯物を干しているのだろうと思い、 忙しいこともあってそのままにしておいた。
そして夕方、ケータイを見ると絹江からの留守電が入っていたのでかけ直した。
絹江が学校から帰宅すると、母が居間で寝たままで、見るとおもらしをしていた。 それもかなり時間が経過しており、1度ではないらしかった。 全身ずぶぬれの状態で、自分で脱ぐこともできず、ただ寝て待っていたらしかった。
絹江は自分の体重を支える事もできず、動かすと痛がる母を、 それでもなんとか起こして服を脱がせると、 肌がただれていたので、レンジで温めたタオルで体を拭き、 乾いたタオルでもう1度拭いてからパジャマに着替えさせ、 更には、脱がした服を洗濯機にかけるまで、1時間もかかったと興奮気味に話した。 母は朝から何も食べていないらしく、 私が用意したものは手付かずで薬も飲んでいないとのことだった。
私はタクシーで帰宅することにした。 通勤で利用する電車は、30分に1本しかなく、 職場から駅までが徒歩15分、駅から自宅までが15分である。 タクシーに乗れば、ここから自宅玄関前まで20分で行ける。
近所の同僚と共にタクシーに乗り込んだ。 こういう時に一人ではないということは大変に救われる。 冷静に会話をしながら乗っていた。
帰宅すると母はお布団の中でやっと落ち着いたところらしかった。 絹江は、先ほどの電話の内容をもう1度、私に説明した。 彼女は実に冷静で、我が子ながら、本当によくできた子だと思う。
私は、母の下半身のただれをチェックしようとして、腹部に触ったところ、 肋骨の下あたりをとても痛がるので心配になり、数ヶ所を押して見たが、 やはり左右対称に痛がるようなので、病院で診てもらうほうが良いと思った。
ところが時刻は既に5時を過ぎていた。
明日は休暇の予定だが、明日までそのままにして良いものか、 それとも、これは緊急を要するものなのか、素人の私には判断がつかなかったので、 かかりつけの病院に電話をかけて指示を仰ぐことにした。
『それでしたら、救急車で来てもいいですよ』とのことだったので、 近所の手前気にはなったが、そうすることにした。
レフティーのケータイに連絡を入れたが圏外なのかつながらず、 勤務先の電話を回してもらって、現状報告をした。
生きるか死ぬかといった状態ではなかったので、 私は冷静に、一応入院の準備を整えてから「119番」にかけた。
『火事ですか? 救急ですか?』
自宅の場所、患者の氏名と容態、通報者の名前と電話番号、通院経歴などを話した。 話している間に電話の向こうでサイレンが鳴り始め、救急車が出動したらしかった。
救急車は遅かった。 いや、早いのかも知れないけど、待っている身にとっては、とても長かった。 これが緊急を要する事態であったら、私はどんなに焦ってしまうだろうと考えた。
隊員は3名、1名がまず状況を確認に来て、その後から担架を持った2人が来た。 母はシーツを持ち上げられ、その布団との隙間に担架用のグリーンのシートを敷かれたが その少しの寝返りにも激痛を感じるようで、見ている私は涙ぐんでしまった。
玄関の外に出て、車輪のついた高足の担架にシートごと乗せられ、 担架は頭から救急車に収められた。 私と絹江は大きな荷物を手にその横に座り、母を見守った。
隊員は、血圧と、心拍数と、血中の酸素濃度を測るべく、母の身体に器具を取りつけていた。
血圧 180/78 心拍数 85〜90 血中の酸素濃度 94% 鼻腔から1リットルの酸素吸入をすることになった。
装置のセットが終了したところで、救急車は走り出した。 病院までは普通車なら20分ぐらいなので、それよりも当然早いだろう。 あたりはあっと言う間に真っ暗になっていた。
隊員が母に質問した。 意識の確認の意味もあるだろう。 名前と生年月日は答えられたが、自宅の電話番号は答えられなかった。
救急車は病院玄関前につけられ、担架はすぐ脇の救急処置室というところに運ばれた。 私たちは、少しロビーで待つことになった。
隣の椅子のご夫婦も、救急の患者さんの家族らしかった。 先に処置室から出てきた真っ赤な顔をした医師から、 「たいしたことないから帰って良いよ」と、捨て台詞のように告げられ、 自分たちの事かどうか認識できずに戸惑っていたが、やがて出てきた看護婦の説明を聞いていた。 あんな言い方をする医者もいるのか、と思った。
第一、素人にはどの程度なら緊急ではないなどという判断はできないのであるから、 医者にとっては「ったく、こんな事でいちいち呼び出されたんじゃぁ」と 思うこともあるのだろうけど、それは仕方がないことだ。 放って置いて、何か起こってからでは取り返しがつかないことだってあるのだから。
あの医者が担当じゃなくって良かった、と心底思った。 しかし、あのような医者が一人だけとは限らず、私は母の容態と同じ位に、 医者がどんなコメントをするのかとおびえていた。
ずいぶんと長い間、待った。 その間、絹江からレフティーに連絡を入れさせた。 レフティーはもうすぐ仕事を終えるらしい。
やがて先生が出て来て話し始めた。 「見たところ、これといって悪い所はなさそうです。 腰が痛いとは言うけど、どこが痛いと言うわけではなくて、背中全体が痛いと言う。 肋骨の下が痛いと聞いていたけれど、内臓ではなさそうだし。 老人ですから、骨も弱くなって来ているでしょうし、 整形外科で診てもらっても、おそらくこれは治療のレベルではなくて 介護していただくということになるでしょう。 ご家族の方にとっては大変でしょうが、 ご存知の通り、うちは老人向けのケアができる病院ではないので、 特に治療の必要のない場合は、入院と言うわけにもいかず・・・ 去年、K先生(担当医)に頼まれて、私が内視鏡を撮ったのだけど、 間質性肺炎というよりも、○×(聞き取れない)肺炎で、これは治りにくいし、 年齢的に肺の機能も落ちているはずなので・・・」
念のため、既に帰宅したレントゲン技師を呼び戻し、 背骨と骨盤あたりの写真を撮ってみたが、これも特に異常はなく 『一般的に老人ならこのくらいは』という程度であった。
レフティーが到着し、親切にも医師は繰り返し説明をしてくれた。 先ほどの医師と比べたら、キチンと説明してくれるので、ありがたい。 しかし絹江は「なんだか面倒くさそうだった」と言っていた。
1人残った救急隊員は、出動記録?に記入すべきを医師の話しから聞き取っていたが、 最終的には『腰痛』としか書きようがなかったので、みんなで苦笑いをした。
取り敢えず、腰痛の痛み止めの座薬を入れて、予備の4つをもらって帰ることになった。
担架から、レフティーのワゴン車に乗せるまでが、また一苦労であった。 泣きそうな母をどうにかやっと座らせて、布団をかぶせた。
帰宅後、レフティーはすぐにボウリングに出かけて行った。
私は絹江と母の部屋を少しだけ片付けた。 近いうちにベッドを購入しなくては、立ち上がるにしても座るにしても大変である。 それにしても、介助なしではトイレに行けないというのでは、私の退職は必至か・・・ 介護認定はまだ下りていない。
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