日記でもなく、手紙でもなく
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旬のものという意味は、安くておいしいその食材が、その時期比較的大量に出回ること。昔多く採れても(獲れても)、今はそうでもないような食材もあるにはある。
月ごとに上旬、中旬というコトバがあるように、「旬」というのは、10日という期間を示しているわけだが、その前後を入れて長くても1ヵ月くらいの期間が<旬を味わう季節>になるという。
旬の季節に、同じものが数多く出回るということは、その界隈に同じ物を複数の店が置いている場合、店も競争して、より鮮度が高いもの、より美味しいもの、あるいはより安価に提供できるものなどを置いたりすることになる。これはこれでいいことなのだと思う。
けれど場合により、旬の魚の場合、例えば毎日焼いた秋刀魚を食べるというのは、秋刀魚が大好物で毎日でも飽きないという人なら別としても、それだけでは辛くなってくる場合もある。 鮮度の高い刺身は、確かに美味しいと思うけど、そんな刺身を少し食べるのが、一番美味しいと思う私の場合は、毎日同じ魚の刺身だけだと、これも考え物だなぁと、贅沢にも思ったりする。
旬のものは、確かに安くて美味しいのは事実だけど、もう一方では、いつも同じ素材が続くため、贅沢・勝手な食べ手から見ると「飽き」と隣り合わせの意味もある。 たぶんそこに必要なのが、その旬のものを飽きずに食べる「コツ」。
旬のものが出回る地域に、そのコツにあたる調理法が様々な形で存在しているかどうかが、一つの分かれ目だろうか。個々の家に、その家独特の調理法が、伝承されて息づいていることが、実は「食文化」ということなのかもしれないとも思ったりする。
イタリアという国が、マンマの味にこだわり続ける意味が、ひょっとしたらそこにあるのかもしれない。日本のマンマの味がカレーでも別に悪くはないが、それだけだと寂しい。
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