日記でもなく、手紙でもなく
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高校時代に論理的に考える力をつけてもらおうと、中央教育審議会は答申案の中に、ディベートと卒業論文、古典などを中心とした必読書30冊の読破義務付けなどが含まれているそうです。 ディベートは、やらないよりやったほうが良いし、そのために様々な情報をどのように集め、論理化していくか、というプロセスが必ず必要になるでしょう。場合によりグループ単位でそれを行うことで、情報を共有化することの意味なども、一層理解してもらえるのではないかと考えます。
問題は、卒業論文を書くということと、必読書30冊の読破という点です。 それぞれいくつかの問題があるように思いますが、一つづつ考えてみたいと思います。
卒業論文を書くということ、それにチャレンジしてみるということは、決して悪くはないような気がします。しかし、チャレンジしても書ききれない、まとめきれないという問題が山ほど出てくるのではないかとも考えます。自分の高校時代、果たして卒業論文などをまとめきれただろうか、それを考えると、かなり暗くなったりする自分がいます。
その大きな要因となるものに、問題を集約化し、それをまとめていくこと、更に自分の考え方を検証してみること、などの方法論が、どの程度高校の教育プロセスの中に組み込まれるのだろうか、その部分に関して少しどころか大いに疑問が残ります。 今の大学ですら、そのあたりのことが(特に文系学部で)どの程度できているのか、卒論すらない大学があることを考えると、そんなことが可能なのだろうか、みたいな気がしてきます。
書く力を高めたい、それによって、論理的思考を向上させる、というようなことを考えるのであれば、卒論ということよりも、4000字程度の作文を夏休みに必ず5本程度書いてきてもらう、みたいなことでも、ひょっとしたら十分なのではないか、とも――。 それを自力でやった人とやらなかった人では、かなり差がついてくる、これが実力の差になるでしょうし、書く、表現する、ということのためのプロセスや技術の洗練度の差になってくるのではないでしょうか。
もう一つは、必読書30冊の設定とも絡みます。 必読書30冊の中に、自分自身の卒論のために読んだ本が半数ほど入ってくるのであれば、そのテーマに係わる問題意識を整理したり、そのような問題の解決の糸口がどのあたりにあるのかを探索する情報として活用できるようには思うのです。しかし、新聞記事を見ると、各高校でその30冊を設定する、というようなことが記されているわけです。 つまり、30冊というのは、古典や外国文化の理解を促進していくことに使おうとしていて、卒論とは直接関係がないような構造に見えることです。
これで、どうやって、高校生に卒論を書けというのでしょうか。 高校時代に、自分の研究テーマを持ち、様々な情報収集の仕方や調査、実験の方法論まで教育しようとするのでしょうか?もしそこまでやるという決意なら、他の学科などは結構はしょって、そちらの教育のための時間にあてていかない限り、短い3年間では、かなり難しそうな気がします。
30冊の問題はまだ別なところにもあります。一つは各高校で30冊を選ぶ、というようなところにも、一見各学校の自主性を貴んでいるようで、実はそこに明快な哲学がないような気もします。 学校の自主性ということよりも、それをもっと個人の自主性のほうに振れないのでしょうか? 良い本を読んで欲しいと願う気持ちは、わからないでもないのですが、なぜその本が素晴らしいかは、つまらない本と比較することで、よくわかったりもします。 30冊の選定ということよりも、3000冊くらいを100〜150ぐらいのグループやコースにして、各グループ内でのオススメを2〜3点設定し、1コース/グループの20〜30冊全部を読むのでも、オススメ(とその周辺)だけをピックアップしながら、いくつかのコースにまたがって読む――などのこと。
それくらいの指針を出しておかないと、果たしてこんなことがうまくいくのだろうか、そんなふうに思えてしょうがない、中教審の(新聞記事だけから見た)答申案でしたね。 記事の内容よりも、もっと具体的にそのプランが描けているのであれば、まだ救われるのですが、果たしてどうでしょうか?
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