日記でもなく、手紙でもなく
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「5年ぶりの(小林紀晴の)長編Asian紀行」と、本の帯に書かれていて、店頭で見てやはりすぐ買って、すぐ読み始めることになった。
小林紀晴、カメラマンではあるが、この人の乾いた孤独を随所に感じさせる文章は、一度読むと虜になってしまう。しかも、このような紀行文にはそれが一番良く似合っていて、この人はずーっとアジアを旅し続けているのではないか、そんな錯覚にも陥るほどだ。
この<遠い国>には、クアラルンプールのインド人たちの祭り<タイプーサム>との、偶然の出会いをきっかけに、縦糸に金子光晴、横糸に東アジア〜東南アジア各地のインド人(街)を絡めながら、終わりのないような旅、そこを旅をしながらも、自分とあまりに隔たり、交わることのない遠い国のことが描かれている。 書かれている文章はつながっていても、それぞれ深く隔てられて、また次の旅へと続いていく。(2002年12月、新潮社・刊)
「・・・・バスターミナルという存在そのものに僕はいつも物足りなさを感じる。何かが足りないと思わせる。日本でも外国でもバスターミナルには何かが足りない。乾いていて、よりどころがなく雑多で落ち着きがない。・・・・」(馬六甲Malacca 120p)
「・・・・ 僕は寺院を出た。 さらにチャイナタウンを先へ歩く。 どこにも僕が目指す行き先などない。 赤と黄の提灯がゆれている。」(馬六甲Malacca 156p)
「・・・・ 僕はその境界線にカメラを向ける。 左側には中国人の老人たちがいて、すぐ右側にはインド人の若者がいる。中国人のほとんどはTシャツかランニングシャツに短パン、ゴム草履といったいでたちだ。インド人は誰もが、襟のついたシャツを着ている。 一つの風景を見ている気がしない。だから僕はここが境界線なのだと強く思う。そして僕はそこに向かって何度もカメラのシャッターを切る。 ・・・・」(新嘉坡Singapole 294p)
一人で旅をしている時に、自分が何処へ行こうとしているのか、その<あて>を見失いながらも、彷徨い続けている時の、なんともいえない感覚。果てまで来たと思ったときに、さらに果てはその先にあると知った時の感覚。あるいは、やっとここまで着いた、そう思いながらも、そこには殆ど人影が失われ、空虚・廃墟となっていることを知ったり、結局通過してきた街と何ら変わりのない街だったりした時の感覚。 心の中心部分に、ぽっかりと空白ができてしまう、そのような瞬間。 戻るところは、そのホテルなのだけれど、そのホテルに戻っても、また旅立つことを急かされるような、そんな時の感覚。 それが、小林の旅であり、その旅に付き合うことで、自分自身とも対面することになる。
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