初日。
いつものように職場に向かった火曜日の朝。
てめえの仕事は月曜日と火曜日に苛酷な仕事が集中しており、ために火曜日の朝はとても調子が悪い。実のところは、こっちで仕事をするようになってすぐは火曜日の方が過酷であり、しかも火曜日は一日の仕事を終えた後そのまま当直に突入していたので、火曜日の朝は学校嫌いな子供のようにお腹が痛くなり下痢を繰り返していた。
今はどちらかというと月曜日の方が過酷なのだが、火曜日がしんどいことは変わりがない。というわけで、気力を振り絞って職場に向かった。
この日は初めての患者さんが来ていた。初めての方にはとても気を使う。まずは前医からの手紙を舐めるように読み、問題点を抽出するところから始める。
今回の新患は、若いころから糖尿病を患わっており、その影響で腎臓が悪くなってしまった。インスリン注射などで前医で長く治療してきたが、よりよい治療を求め当院に転院してきたとのことだった。ということは先方の期待値も高めであるということで、てめえの中にちょっと緊張が走る。
それ以外に、肺に持病があるとの記載があった。こちらは別に呼吸器の専門医に診てもらっていたが、近く大学病院で診てもらうことになっていると記されていた。肺の状態はかなり悪く、常に酸素吸入が必要なので在宅酸素療法までされていた。紹介状を舐めるように読んだが、この方は年齢的には40代前半であり、その苛酷な人生を思いてめえは気分が重くなった。
一通りの情報を頭の中に入れて、てめえは患者のもとに向かった。なんだがすでに顔色が悪く、呼吸も荒い。まずは一通りのあいさつを済ませて、てめえは尋ねた。
「どうしましたか? なんだか顔色が悪そうですが」 「…娘に風邪をうつされたと思うんですね。夜から咳が止まらなくて息も苦しくてね」 「しんどいのはいつからですか?」 「昨日の晩からですわ。それまではいつも通りだったんですけどね」 「夜は咳で眠れなかったのではないですか?」 「そうですね。一睡もしてませんし、横になるとしんどいのでずっと座ってましたわ」
と言いながら、彼は苦しそうに痰絡みの咳をした。
今までの話からすると、最後の話はまんま「起坐呼吸」である。基本的に心不全の時の症状であり、原疾患のことも考えてめえは心不全を疑った。ただし、娘さんから風邪をうつされて、もともと悪かった肺の状態がさらに悪化した可能性も否定しきれない。自宅では毎分2Lの酸素吸入を行っているとのことだったが、てめえが診察に行った時には、すでに看護師の判断で4Lにまで酸素量は増やされていた。
「じゃあ、ちょっと診てみましょうね」
と、てめえは沖縄時代と変わらない言葉で診察を始めた。
心不全なら、隆々と浮き上がった頚静脈や、あるいは著明な下肢の浮腫が見られるはずなので、目で頚部を観察しながら両足に手を伸ばす。座った状態で頚静脈が浮き上がっていたら明らかに異常であるが、その症状はなかった。また、下肢に浮腫はあったが著明ではなかった。
ということは心不全ではないのか。頭を下げて頚静脈を観察するともっと多くのことが分かるが、あまりに苦しそうだったので、より苦しい症状を誘発する体位をとるのはやめた。
次に聴診器を取り出し、膜の部分を掌で包んで温める。朝一番の聴診器は冷えていることが多く、いきなり冷たい聴診器を直接肌にあてることは避けたいところである。
そして聴診器をあてた。まずは心音を聴く。心不全に特徴的な心音は聞こえなかった。その後に肺の音を聴くが、ここでも心不全に特徴的な音も、肺炎に特徴的な音も聞こえなかった。
この時点での、てめえの結論は「心不全は否定できないが、どちらかというともらった風邪が肺の疾患を悪化させている」であった。正直、これは困ったことになったと思った。というのは、前者は治療可能であるが、後者の場合はあまりよくない結論になることが多いからだ。
ここまで一瞬で考えて、にっこりとてめえはさっきの結論と反対のことを口にした。
「心不全の可能性があります。まずは心不全の治療をしましょう。ただし、娘さんにもらった風邪で肺の疾患が悪化している可能性もあります。心不全の治療に反応しなければ、そちらの可能性も考えましょうか」
わかりました、宜しくお願いしますと彼も笑った。
さっそく看護師に指示を出し、てめえは別の患者の診察に向かった。
他患の診察を終えて、彼のもとに向かった。どうですか? と尋ねてみた。ちょっとは良くなったような気がする、という彼の言葉とは裏腹に、顔色は全く改善していない。心不全であれば治療にそろそろ反応する時間でもあった。反応していれば、吸入している酸素量は減ってくるはずだ。
これは、心不全ではないな…。
とすると、この状態であれば入院が必要である。あと少し様子を見て、改善がなければベッドの手配をしないといけないなとてめえは考えた。
午前中の診察を終えて、再度彼のもとに向かった。残念なことに、やはり症状の改善はなかった。
心不全と考えて治療したけれども、治療に反応していない。ということは、肺の状態が悪化しているということになります。いずれにせよ今の状態では家に帰れないので、入院しましょうとてめえは言った。彼は静かに頷いた。
午後からは入院が可能な病院の勤務だったので、さっそくベッドを手配する。とても状態が悪いので、集中治療室を開けておいてほしいとてめえはお願いし、一足先に病院に向かうことにした。申し訳ないけど、先に病院で待ってますね、とてめえは彼に告げ、病院へ向かった。
病院に着いてからしばらくして、看護師同乗の上、彼は当院に搬送されてきた。まずは朝の診療所で出来なかった検査を行う。心不全はもうこの時点ではほぼ否定的だったので、肺の検査を集中的に入れた。検査をした結果、肺の状態は思った以上に悪化していた。
救急室からすぐに集中治療室に移動し、肺病に対する治療を開始した。正直、ここまでの時間のロスはほとんどなかった。午後に病院での勤務であり、そのまま治療を継続できたということが大きかったと思う。これが全く別の病院であれば、おそらく一から検査や病歴聴取を行い、治療開始はさらに遅れていただろう。
その日は彼に対する処置で一日が終わった。てめえが帰宅する時間になっても、彼の病は治療に全く反応していなかった。
二日目。
水曜日は、いつもはのんびり仕事が出来ることが多いのだが、この日は朝出勤した時から彼のベッドサイドから離れることが出来なかった。そう、状況は前日よりさらに悪化していたのだ。吸入する酸素量は、徐々に増やされて6Lになっていた。
どうですか、と、てめえは答えの分かり切った質問をした。うん、しんどいわ、と彼は力弱く笑った。その吐く息は荒く、寝返りを打つだけで呼吸が乱れていた。
その日も別の治療を加えてみたが、改善する兆しはなかった。病勢はますます強くなっている。正直、もう打つ手はなかった。
情報化の進んだ現代において、病院間での治療の差は今やほとんどない。最新の治療法はたちまち世界中に広まるし、インターネットを使うと一瞬で最新の情報にアクセスできる。逆に言うと、旧態依然の治療をしていると、それはたちまち患者側に批判されてしまうし、治療が上手く行かずに裁判に持ち込まれると負ける。患者側もその気になれば情報にアクセスできるのだ。
あとは、評価の定まっていない治療法を試すか? しかしそれは「バクチ」にしか過ぎない。我々が心掛けなければいけないのは"first, do not harm"である。患者の得る利益を超えた害悪が予想されるのであれば、それは避けなければいけない。不要な薬は出してはいけないし、切ってはいけないところを切り刻んでもいけないのだ。
昼前に、彼の妻がやってきた。一生懸命に治療していただいているのはよくわかるのだが、状態も改善しない。近くの大学病院に転院して治療を行うことはできないか? と相談された。
彼の妻の気持ちもよくわかる。しかし、大量の酸素吸入を行っており、寝返りを打つだけで呼吸が乱れるような状態の人を搬送すること自体が危険であると、てめえは説明した。せめて少しは改善してから動かした方が良い。そう言いながら、今までの状態を考えると改善を期待すること自体が難しいのではないかという考えもちらりと頭をかすめた。
ただし、治療はまだ始めたばかりである。あと数日は経過を見てはどうだろうか? それでも改善なければ、一か八かになるが大学に運びます。そうてめえは言った。
「…分かりました」と、少し納得しない顔で彼女は頷いた。
結局この日も彼のそばを離れることはできなかった。その中で、彼といろいろ話をした。
続きはまた今度。
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