解放区

2014年03月15日(土) 梅うどんの思い出

思えば自分の育った環境はいろいろと異常だった。詳細は書けないが小学校から中学に上がるころが最も異常な状態で、もうすぐ小学校を卒業する小さな頭で必死に考えた結果、自分の身は自分で守らないとだめだろうという結論に達し、中学校に入るとてめえは柔道部に入った。そうでなければ好きな野球の出来る野球部に入部していただろうと思う。

中学に入学してすぐのある祝日、財布だけをもった状態で母と子は突然家を追い出された。本当に「着の身着のまま」であった。その数日後、結果的にてめえだけが家に帰ることになった。

なかなか仕事の見つからない母のために、てめえは年齢を偽って働いた。朝の新聞配達から始まり、夜のラーメン屋の仕事を終えるのはいつも午後10時ごろだった。

ラーメン屋の仕事が終わった後も、本当は家に帰りたくなかった。母と妹のいる、トイレもない狭いアパートの部屋に帰りたかった。

母に会うことは固く禁止されていたので、いつも仕事の合間夕方などにちらりと立ち寄るくらいだったが、家具も何もない部屋にぽつんとかけられたカレンダーに、見えないくらいの細かい字で母は日記を書いていた。「今日も職安に行ったが仕事は見つからなかった。生活保護の相談も役所にしたが、正式に離婚もせずに別居しているだけでは血税は出せないと言われた。今日も具のない棒ラーメンを食べた。ああ以前のように息子と一緒に暮らしたい…」

しかし長男であるてめえに、祖父母は執着した。昔の人だっただからだろう。そして、孫とはいえ女の子に全く興味がなかったようだ。今はどうだか知らないが、昔の台湾は男尊女卑がとても強かった。未だに結婚しても妻は夫の姓を名乗ることができず、死んだ後も墓には名前が書かれることはなく、死亡した日の下に「女」と書かれる。「男の子以外は興味ないわ」と、祖父ははっきりと言った。そして、その通りに長男の長男であるてめえに執着したのだ。

てめえが母を選択すると何をされるのかわからなかったので、追い出された後要求されるままにてめえだけしかたなく家に帰った。

いつもラーメン屋を後にすると、すぐに家に帰りたくなかったので、友人の家が経営するうどん屋に寄って帰った。晩御飯代わりでもあったのだが、いつも友人の両親は暖かく迎えてくれた。そして、いつもメニューにはない「梅うどん」を作ってくれた。といっても、梅干しとわかめとネギが乗っただけのうどんなのだが、これがいつも沁みるように旨かった。


そんな生活をしていたら生活のみならず精神的に荒れていくのも当たり前の話で、まず夜眠れなくなった。大人に相談するなどという知恵が全くなかったので、アルコールに手を出した。その時最も安かったのが芋焼酎だったので、お金のない中学生は毎晩芋焼酎を浴びるように飲んだ。今ではブームになった感もあるが、当時は本物の労働者御用達の飲み物だった。なので、今でも芋焼酎を飲むとあの時の空気を思い出し胸が苦しくなる(けど、もちろん飲む)。

憂さ晴らしにたばこにも手を出した。もちろん、最も安い「ハイライト」。これまた本物の労働者御用達タバコ。芋焼酎とハイライトはこれまたよく合うのだ。

そして暴力。といっても、怒りの向かい先は大人たちという尾崎豊病だったので、暴力は教師に向かった。


そんな日々を送っていると、もちろん学校に行かなくなる。さすがに年齢を偽っていても昼間のバイトはできない(たまにしてたけど)し、これだけ先の見えない状態でそもそも勉強するということに全く興味が持てなかった。毎日食べる梅うどんだけがささやかな楽しみだった。

そういう日々を送っていると、徐々に感情がなくなって来たのだ。とうとう中学2年の3学期、体育以外はすべて「1」という、ほぼ「オール1」という成績を頂いた。とうとう落ちるところまで落ちたなとてめえは思った。


中学3年への進級を控えた3月、いつものように何とか時間を作ってこっそりと母の家に行った。その時は住宅事情もあり、母はちょっと遠くの公営住宅に転居していたので、気軽に行けることもなかった。ので、てめえは数カ月ぶりに母の家に行ったのだ。訪問するには以前よりハードルが上がっていた。


数か月ぶりに母の家に行く。経済的な理由で電話を引けなかったので、前もって連絡することもできなかった。もちろん携帯電話のない時代の話。そんなわけで、どうでもいいが緊急の連絡は電報だった。笑 今の時代からは全く想像できないけれども。


公営住宅の階段を最上階まで登り、母の家に着いた。母と妹は喜んでてめえを迎えてくれた。もうその時は母も仕事を見つけており、てめえの稼ぎは必要ない状態だった。

家に入るとちょっとした違和感があった。久しぶりだからなんだろうか、と思ったが、その違和感の正体はすぐに判明した。なんと生まれたての赤ちゃんがいたのだ! 壁には「命名 ○○」という紙も貼ってある。母親が妊娠したという話は聞いていないし、誰かの子供を預かっているのか? としたら壁の張り紙はなんだ?

「知り合いがな、赤ちゃん産んでそのまま死んだんや。その子は天涯孤独で相手もわからん。そんなわけでうちで育てることにしてん」と母は言ったが、さすがに突っ込みどころ満載で正直それ以上聞く気が失せた。それ以上に目の前にいる、14歳離れた「妹」が可愛かったということもある。

それからは、少しでも時間ができると新しい妹に会いに出かけた。無垢な赤ん坊の世話をするだけで、てめえのガチガチに歪んだ心が少しずつ溶けていくような気がした。

学校にも少しずつ行くようになった。教師に暴力的になることもなくなった。しかしアルコールとタバコは止められなかった。梅うどんを食べに行く機会も徐々に減った。あの妹のためにも、中卒で学歴を止めることはやめた方がよいだろうなと漠然と考えた。勉強については、例えば英語はbe動詞からやり直し。

そして、柔らかくなった心で考えた結果、父の家を出ることにした。長男なんてクソくらえじゃ。んな都合てめえには知るか。ラーメン屋も継ぐつもりはないぜ! Yo、 ニガー(同朋)! ファックラーメン屋! 

ある日の朝、小さなボストンバッグに身の回りの物だけ入れ、父に「ばいばいてめえは母さんと一緒に生きていく」と一応のあいさつをして、自転車でてめえは父の家を出た。もう帰るつもりはなかった。


それから1年後、私学には落ちたがてめえはなんとか公立高校に合格することができた。


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