休日は、天気が良くててめえの体調が良かったら時間を見つけて親父と散歩に出る。しかしこれが意外と厄介事なのだ。
もともと呆ける前から「健康病」の患者だった親父は、とにかく時間のある限り体を動かさないと気が済まない。彼が最も好むのは走ることだが、さすがに走って心臓を止めた経歴があるのでドクターストップがかかっている。
そんなわけで、彼と散歩する。もともとマラソンが好きな人なので結構な距離を歩くのだが、それはまあ仕方がない。
問題は、彼そのものにある。呆けてしまいエロくなった彼は、道端ですれ違う女性にまで手を出そうとする。
それも、とてもさりげないのだ。すれ違う瞬間にさわっと触る。触られた女性は、あまりにさりげないので一瞬振り返った後、首を傾げる。振り返ったところにいる男性は明らかに老齢で、振り返ることもなく真っ直ぐ歩き続けているからだ。
そして彼女は思うだろう。「たまたま散歩中の男性の手が当たっただけ」だと。そして自分を納得させ、その後そういった出来事があったこと自体を忘れるだろう。
はじめはてめえも「たまたま」なんだろうと思っていたが、たび重なるうちにこれはたまたまではないということに気が付いた。
もちろん、本人を問い詰めても意味がなかった。「覚えていない」のだ。自分のしたことを。
これ以降、てめえは親父と散歩に行くということ、と言うよりは、この人を外出されるということ自体に否定的になった。これは、明らかに往来を堂々と歩いてはいけない人だと。
なぜ自分がそう思うか、それも含めててめえは滔々と親父に説明した。「だから、散歩には一緒に行きたくない」と。親父はうなだれて聞いていたが、この人は短期記憶が障害されていたのだ。
30分後には「おい、散歩行こうぜ」と親父の大きな声が響いた。なぜ散歩に行けないのか、と言うことをもう忘れたのだ。てめえは絶望した。この人は命が助かって、果たして良かったのだろうか?
今日も彼と散歩に行った。あれから、いろいろ考えてできるだけ人とすれ違わないルートを開発した。それでも無人の街を歩くわけではないので、こっちも色々と気を使う。例えば、女性が前から歩いてきたら、手を伸ばしても絶対に届かないルートを選ぶとか、彼の気を逸らす話題を振るとか。ずっと気が張ったままなので、散歩の後はぐったりと疲れる。体力的にではなく、精神的に。
そうして彼と延々と歩く。空には雲ひとつなく、今日は散歩日和であった。「えっと、今の仕事は学校の先生だっけ?」などと見当違いのことを言ってくるが、適当にかわす。
「もう桜は咲いたやろか?」 「こないだ見に行ったような気がするが」 と五月とは思えないような会話をするが、彼は楽しそうなのでまあいいだろうと思う。
こうなってしまったのも、彼が突然心停止したからだ。彼が心停止しなかったら、てめえは今でも南の島で激務に苦しんでいただろう。
事実、親父が倒れた翌年の人事もすべて決まっていたし、てめえは南の島を離れる気は全くなかった。親父が倒れることがなかったら、てめえは今京都にいないだろうと思う。
今まで生きていて、生きていると逆らうことのできない「大きな流れ」があると実感する。自分の選択とは無関係な、いわば避けることのできない大きな出来事。
てめえが南の島に行ったのは、明らかに自分の選択だった。しかし京都に帰ることになったのは、この「大きな流れ」があったのだと思う。
もちろん、それを避けることもできただろう。親父が倒れたにもかかわらず、仕事の多忙や職場の事情を言い訳にして、南の島に残ることも不可能ではなかった。
しかし、てめえはこれは「京都に帰れ」ということなのだろうと思った。そして、そういう「天命」というか、大きな流れには逆らわない方が良いと思った。
呆けた親父と散歩していて、京都に帰って来た時のことを思い出した。
人生にはいろんな出来事があって、出会いも別れもあって、その中にはおそらく必然的なものがあるのだろうと思う。てめえが今京都にいることも含めて。そして京都に帰ってくることで、新たな友人もできたしありえないような出会いもあった。
そういった、人生の「流れ」みたいなものがあるのだろうと思うが、てめえはそれに逆らうのではなく自然に受け入れるよう生きていきたいと思う。それがてめえの「性」だとおもうのだ。
|