彼女とは話したこともないし、 彼女は私のことは知らないんだけれど、
一方的に忘れられない女性がいる。
彼女は私が以前勤めていた新橋にいる。
当時の業務は経理で、 毎日5つぐらいの銀行を回っていた。
彼女は内幸町駅付近にある、 富士銀行に行く途中のレンガ通りに、 時折姿を見せた。
私はいつも午前中にその道を通り、 関連会社の経理がだいたい午後に通る。
私よりも関連会社の人の方が目撃回数が多いので、 午後に現れるようだ。
高級なうどん屋が入ったビルに佇む彼女。 おそらく待ち合わせ。
身なりは普通だ。 雰囲気も普通だ。 眼もイッてない。
それなのに彼女はいつも、 道行く何人かを呼び止めて、 必ずこう聞く。
「今、何時ですか?」
たぶん、毎日。 たぶん、数十の人に。
関連会社の経理は一度聞かれたことがあると言う。
私は幾度か遭遇した彼女の前を通るたびに、 聞かれた時のイメトレをしていたにも関わらず、
一度も聞かれることがないまま、 会社を辞めてしまった。
日々の生活を行っていて、 空間の隙間にぽろっと落ちた時に、 ふと彼女のことを思い出す。
誰を待っていたんだろう。
そして、
待ち人が必ず来る人であって欲しいと。
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