Sun Set Days
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2001年09月02日(日) 『ボブ・グリーン 街角の詩』

 友人と一緒に買物に繰り出していた。
 午後一杯をかけて郊外にある様々な店舗を見て回ったのだけれど、当然のごとく渋滞に巻き込まれ、わずか20キロほどの道のりにやたらと時間がかかる。
 途中、無理な右折をする車がいたり、逆に初心者マークをつけた挙動不審の車が右折のタイミングをことごとく逃したり、週末の道路はなかなかに危険が一杯だ。それに、車で商業施設に入るとよくわかるのだけれど、建物内の駐車場も非常に車を入れづらい状況になっている。特に最近は大型車がブームになっているから、狭くて暗い駐車場にはどうしてもしっくりきていないように見えてしまう。ああいう大きな車に乗っているドライバーは大変なんだろうなと、助手席でカルキングを飲みながらぼんやりと思う。

 カルキング=謎の王子さま風の男の絵が書かれた乳飲料。面白がって買ってみて後悔する。

 特に、日本の駐車場はドライバーに優しくない。切り返しに失敗して、何度も行きつ戻りつを繰り返し、しまいにはその後ろに入庫待ちの長蛇の列を作り出してしまっている状況を目にしたことのある人は結構多いと思う。もちろん、日本の場合は絶対的な土地不足にあるわけだから、致命的かつ宿命的な問題ではあるわけだけれど。
 ただ、アメリカの場合はもちろん地域によっても異なるのだろうけれど、基本的には非常に親切にできている。
 郊外では商業施設の外に広大な駐車場がある場合がほとんどなのだけれど、それだけではなく、その駐車場の線が斜めに引かれているのだ。つまり、日本の1.5台分くらいのスペースに斜めに線を引いているから非常に車の出し入れがしやすくなっている。運転技術が未熟な人であっても、困ることがほとんどない。それは当然無駄なストレスの軽減に繋がるから、よりトータルに見た場合の買物行動が楽しいものになるのだ。現に、日本の場合はさっき書いたような状況下にあるから、週末に家族を連れて買物に行くときに(渋滞と駐車場のことを考えて)気が滅入ってしまうお父さんも意外と多いんじゃないかと思う。


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『ボブ・グリーン 街角の詩』読了。新潮文庫。
 昔読んだ本の再読。
 学生時代にある友人が10冊ほどの本をくれたことがあって、その中の1冊。どうして本をもらう経緯になったのかはよく覚えてはいなかったのだけれど、なんとなく本棚の奥にあるのを見つけて、手にとって、細切れの時間で読んだ。そこに収められているのは50篇のコラムだから、それほど時間もかからずに読み終えることもできた。解説まで含めると258ページ。
 ボブ・グリーンのコラムは好きなほうだと思う。翻訳されたものしか読んではいないのだけれど、いままでに数冊読んだ。読んでいると、個人的に思っているアメリカ的なイメージがそこには広がっていて、想像をめぐらせながら読み進めることができる。ああ、実際もこんな感じなんだろうなと(もちろん、すべての本を読んでいるわけではないから、読んだ中では、ということだけれど)。
 共感させられたり考えさせられることが多いのは、ボブ・グリーンのコラムのほとんどが市井の人たちに焦点を当てているからだし、もし有名人が登場する場合であっても、その表に出てこない部分について触れられているためだからだと思う。
 この本の中でも、たとえばローリング・ストーンズ(とりわけビル・ワイマン)と彼らがかつて憧れていた(そして現在は落ちぶれている)ブルース・ミュージシャンとの一夜の交流であったり、ペットを飼いたがっていた身寄りのない老人の話、息子に遺産をのこすために、自分の左眼を売るという父親の話、そしてガードマンをしながら52歳で修士号をとった男の話などが短い、けれども簡潔で印象的な文章で語られている。それらのほとんどはすぐ隣ででも起こっていそうな話、あるいは遠い世界の話なのだけれど、想像することのできるような話ばかりだ。
 そして、書き手のスタンスは対象に深く入り込むわけでもなく、そこには常にある一定の距離がある。それがジャーナリストととしての立場でもあるわけだけれど、彼によって切り取られまとめあげられたそれぞれの人生の断片は、とてもわかりやすく興味を惹くようなかたちで目の前に差し出される。新聞のコラムの分量はそう多くないので、素材のまま提供するわけにはいかないのだ。
 そして、それは多くの人にとっては消費されていくものではあるのだけれども、毎回異なるはずのある一定の人たちにとってはおそらくは意味を持つ。読み手はそこに書かれている断片を自分の側に引き寄せて、自分の問題を投影し、個人的な問題として考えたり、あるいは自分とは遠く離れているがために、どこかで安心してたのしそうだとかかわいそうだとか思うこともできるのかもしれない。いずれにしても、書き手は文章を書く、誰かがそれを読んで何かを思う、それだけ。誰かはその内容に怒りを覚えるかもしれないし、楽しい気分になるかもしれないし、もしかしたら傷つけられたような気持ちになることさえあるかもしれない。けれども、一度書き手の手を離れてしまった文章は、あとはもう読み手のものになってしまうから、それをどうすることもできない。
 それでも、そういう文章を毎日送り続け、それが支持されていたのだから、やっぱり根底にあるのは感情的で、ハートウォームな部分のような気がする。
 シンプルで、直裁的で、わかりやすいコラム。そして古きよきアメリカの残照を背後に見やりつつも現代とまみれなければならない世代でもあることを過不足なく受け入れているようなスタンス。感情の扉をとんとんとノックするような、そういう文章。
 手元にあるのは(友人にもらった)平成4年初版の文庫本なのだけれど、まだ再版されているのだろうか?


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 素朴な疑問

 上の方でカルキングについて書いたけれど、飲んでいたときに僕はずっと素朴な疑問を感じていた。
 缶に描かれている絵はどうしても王子さまにしか見えない。
 それでも名前はカルキング。
 カルプリンスじゃないのか。
 王子なら。


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