Sun Set Days
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2001年09月30日(日) |
『ホリー・ガーデン』2 |
今日はとても寒い一日でした。 夕方帰ってきて、今年初めての暖房を入れました。 すぐに、ちょっと早すぎるかと思い直して「停止」にしたのですけど。 では、まずは「ホリー・ガーデン」から。
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この作品は92年から93年にかけて毎月一章ずつ「波」という雑誌に連載されていたのだけれど、雑誌連載だから毎月の枚数はほぼ決まっている。その同じ枚数という部分も、実はこの物語に流れる一定のトーンを反映しているような気がしてしまう。ある章だけ短すぎることもなく、また長すぎることもなく、ほぼ決まった長さでちゃんと次の章に続いていく。その規則正しさのようなもの。そう、この物語は余分なことにばかり明かりを当てているのだけれど、同じ速度で進んでいくから、些細なところにも漏れなく明かりを当てていくことができるのかもしれない。 江國さんは比較的雑誌連載が多い作家だけれど、その作家の持つある種の傾向が、そのような形式を選んでしまうものなのだろうなと思う。 それでは、第2章。
「2 昼の電車」
静枝は芹沢という年上の男と遠距離不倫をしている。 渋くてやや気障ですらあるようないかにも芸術家風の芹沢は、岡山で美術商を営んでいる。仕事の関係で比較的東京に出てくることが多いようで、そのときには静枝と一緒の時間を過ごすのだ。「大きくて形のいい、とても静かな手」を持った「やるべきことをやらない、というのはよくないよ」というようなセリフをいう男。きっと人生経験が豊富な男。
二人の関係においては、暗黙の了解である幾つかのルールがある。たとえば、「相手の生活を侵食しないことに決めている」というのもそのひとつ。だから、静枝は芹沢と久しぶりに会ったというのに果歩との先約があるからと昼食の誘いを断わるのだし、そうすることによって、そのルールをちゃんと守れているのだとほっとしたりするのだ。 果歩の親友であり、物語のもう一人の主人公でもある静枝は基本的にとても真面目だ。決して要領が悪いわけではないのだけれど、頑なに考えすぎるようなところがあって、物事を自らの規定した枠組みの中に当てはめようとしてしまう。きっとあるべき自分というのがちゃんとあるのだ。そういうものがあると人はどこかでは背伸びをせざるをえない部分があるし、恒常的に自分に何かを言い聞かせなくてはならなくなってしまうものだし。 そういう静枝だからこそ、年上の(厳密に言うと年齢はそれほど関係ないから精神的に大人である)芹沢との関係には幸福を感じている。「こんなにも「わかりあっている」ことに胸を嬉しくしめつけられ」たりもする。 芹沢はそういう静枝のことをちゃんとわかっている。それはもしかすると少しだけずるいことなのかもしれないけれど、打算めいたもののまったくない関係はなかなかないし、それでも芹沢は静枝のことをちゃんと想っているのだとは思う。ただ、芹沢のほうが人生を長く泳いでいる分たぶんもっと長い視点で二人の関係を見ているようなところがある。静枝は遠い先のことを意図的に考えないようにしているようなところがあるような気がする。たぶんわかっているのだけれど、見たくはないというような。考えたくはないというような。 あえて触れないほうがいい場所の多い二人の関係。 だから芹沢は穏やかに言葉少なく微笑んだりするのだ。いつも。
果歩は何ヶ月かに一度、「何があったわけでもないのに耐えがたく孤独な夜」を迎えてしまう。部屋の中で膝を立てて座り込んで、黙ったまま煙草を吸い続けてそのまま朝を迎えてしまうのだ。「誰に電話をしても、どんな音楽を聴いても、それは無駄な抵抗どころか自分の首をしめることになる」ことがちゃんとわかっているいつもの長い夜。 窓の外が白みはじめ、街が動き出す様々な音が聴こえ始めても、それでも果歩はまだ動かない(と言うよりも動けない)。部屋の中がようやく明るくなってから、果歩は自らの呪縛をとくように抱えていた膝から手を離し、両足を力なくのばすのだ。それが午前八時。 そういう朝には、果歩は「少なくとも今朝の下北沢において、これ以上孤独な人間はいないだろう」と思う。 特に深い理由もないのに孤独や絶望は果歩を取り囲み、顔を洗ったり歯を磨いたり朝ごはんを食べたり、そういう現実的な行動を積み重ねていくことでその孤独を少しずつ薄めていくほかはない。それが一時的なものでしかないにしても、完全になくなってしまうことはきっといつまでもないのだということがわかっていても、それでもそうするしかないのだ。無理矢理に現実の中に戻ってくるほかはないのだ。 果歩は「普段よりもあかるい色の口紅をつけ、手持ちの服の中で一番短いスカートをはく。」ときに形はどんな言葉よりも重要だから、そんなふうに形にひきずられるようにして少しずつ世界と折り合いをつけるしかないときもあるのだ。
「おゝ これは砂糖のかたまりがぬるま湯の中でとけるように涙ぐましい」
だから果歩はそう一人ごちる。果歩には好きな言い回しというものがあって、これもその内のひとつだ。鏡を睨んだまま、それを自分に言い聞かせるようにそう言ってみせる。 そんな朝には、駅を目指して歩きながら「孤独が服を着て歩いているみたい。」だと思う。すれ違う人はきっと気付くこともない、ひどく個人的な孤独だ。
それが二人が久しぶりに会う日のそれぞれの朝だ。不倫相手と幸福な朝を過ごしている静枝と、理由のない孤独のなかにいる果歩。小さな子供だったときから知り合いだった二人は、いつの間にかずいぶん遠い場所にきてしまっている。子供の頃に想像したようなどんな人生とも異なるものになってしまっている。それが現実で、それでも二人とも日々の中を自分のペースで歩いているのだ。 そしてたとえば自分が休日に駅までの曇り空の下を歩いているときに、すれ違う男の人でも女の人でもが、そういう「孤独」をまとっているのかもしれないと考えてみる。 もちろんそれに気付くことはできないだろう。わかるはずもないだろう。けれども、そういう人はきっといるのだろうなとも思う。
静枝は果歩と会う前にプールで泳いでくる。「休みの日の午前中は泳ぐことにしている。」のだ。
「くたくたになるまで泳ぎ、なおも泳ぎ続けると、ふいに水の抵抗がぷつんと消えてしまう瞬間がある。その瞬間に、静枝はあらゆる生命は海から発生したのだということを理解する。それは圧倒的な開放感だった。」
もともとは芹沢に勧められてはじめた水泳だったが、いまではそれは静枝自身にとって大切なものとなっている。自らの身体をぎりぎりまで持っていくことによって得られる開放感を好むというのは静枝らしい。 プールのロッカールームで身体についた雫を抱き取りながら、家族に独身宣言をしたことを思い返しながら、最後にはやっぱり芹沢のことを思う。今朝の幸福な時間のことを思い返すのだ。「芹沢に出会ってはじめて、静枝は自由の味わい方を覚えた」わけで、とくに「静枝が幸福を感じるのは、きまってこんな風に離れているときなのだ。離れていて芹沢を思う時、心の内側にも外側にも愛がどっと溢れてくるようで、自分の中に際限なく愛を湧かすその泉の存在に、静枝はほとんど感謝さえ」してもいて。
静枝はプールから自転車に乗って果歩との待ち合わせの店へ向かう。 果歩は静枝に向かってにこにこと手を振り、静枝は果歩がまたオモチャみたいな眼鏡をかけていることに心の中でため息をつく。 「ああやって変てこな眼鏡ごしに世の中を見ることで、果歩はあらゆるものを茶化しているのだと静枝は思う。」 二人の会話は気心の知れたもの同士のそれではあるのだけれど、それでも気のおけないものでは全然ないところが不思議だ。まるでたくさんの地雷の置いてある場所で、お互いに地雷を踏まないように言葉を重ねているようなものなのだ。昔の話、いまの恋人の話。どんな話題の中にも地雷はある。ある一つの話題が過去の記憶に簡単に結びついてしまう。それくらいには付き合いに歴史があるのだ。 果歩は芹沢に会ったことはなかったが、「静枝があれだけ傾倒しているのだから好人物に違いない」とは思っている。相手のことをよくわかっているから、そんなふうにも思える。けれども、果歩は自分から芹沢の話題を出しておいて、その話題に自分で居心地悪くなってしまう。果歩は静枝から芹沢がいまごろ東京駅にいるのだということを聞かされるが、「見送りに行かなくていいの?」という問うと「果歩と会うのひさしぶりだもん」と静枝が答えるのを聞いたりしている。複雑な関係。 また、二人は幾つかのことで意見の一致をみているのだが、「どうしても昼間に会いたい友達」というものがあるということでもそうだった。「昼間の記憶をたくさん共有している者同士だからだろうというのが二人の推論だった。(……)大人になって出会った友達とは、だからいくつもの夜を遊んで親しくなっていく。」
それから二人は果歩の目をかがやかせての提案で東横線に乗ることにする。ガラガラに空いている昼の電車。二人は何の相談もないままにいちばん前の車両の一番前まで歩いていく。 「変わらないね」と言い合う。 二人は十二年間(小学校から高校まで)、この電車で一緒に通学していたのだ。自由が丘につくと、目くばせをし合う。それは静枝がいつも乗ってきた駅だった。「あやとりをしたりしりとりをしたりなぞなぞをしたり。時にはこっそりお菓子を食べたりもして、ここでたくさんの時間をすごした。」懐かしい電車のなか。 静枝は、懐かしさに思い出話をしてうかれるのだけれど、「こういう時にはしゃぐのはたいてい果歩なのだ。たまにつられてはしゃいだあとで、静枝は突然仏頂面」になって座席に腰をかける。「素直じゃないな」と果歩は思う。無邪気にはしゃぐ果歩、真面目な静枝。友人同士の間にはいつの間にか自然に役割が割り振られるものだし、二人のそれは長い時間によってより強固なものになっている。その役割は、それぞれが自然になることのできる役割でもあるのだろうけど。 そうして、果歩が振り返ると、いつの間にか静枝は席でうとうとと眠っていた。
「帰りは二人で昼寝だな。果歩はなんだかうれしくなって、静枝の隣に腰かけると、うす緑縁の伊達眼鏡をはずした。」
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第一章が果歩を中心にした物語の導入部であるように、第二章は物語の主軸でもある二人の友情に焦点が当てられている。この章だって久しぶりに幼なじみの二人が休日に会う約束をしている一日を追っているだけでしかない。静枝と果歩、それぞれのその日の朝を描いたあとで、一緒に会っている時間を描いて。 静枝が芹沢と幸福な時間を過ごしていることも、果歩が理由のない孤独に包まれていることも、紛れもないそれぞれの現実だ。そして二人はそれぞれの生活をしながら一緒に会って言葉を交わす。みんなおそらくそうなのだ。自分が普段外に見せている生活の他に、恋人との親密な時間があったり、あるいはどうしようもない孤独を感じていたりする。幸福であれ孤独であれ人が生きていくだけでそういうものはまとわりついてくるし、そういうものをずるずると引きずっていくことしかできない部分はあるし。自分のそのときの状況によって、いつも引きずっているものが本当に重たく感じられたり、空気みたいに軽く感じられたりするだけなのだ。
果歩と静枝の友情は一筋縄ではいかないけれど、その分とても太い。質のよいロープがたくさんの細かな藁の連なりで出来上がっているように、二人の友情はたくさんの時間や細かなエピソードや感情の連なりで編まれている。だから別に言葉がほとんどなくても、一つ二つの感情が途切れても、ロープ自体が完全に切れてしまうことはないのだ。
ということで、次回に続きます。 というか、かなり個人的な感想だなあと思いながらも継続していくのです。
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先週、久しぶりにマクドナルドに行ってきた。 月見バーガーを食べるために。 僕はハンバーガーがかなり好きで、とりわけマクドナルドによく行く。 そりゃあ、味の面で言えば率直に言ってモス・バーガーのほうが美味しいだろうし、フレッシュネス・バーガーもバーガーのサイズを選べたりしてなかなかに捨て難いのだけれど、それでもやっぱりマクドナルドは自分の中では定番という感じだ。 そのマクドナルドでは、時期ごとにマックグルメと称して様々な期間限定バーガーを出しているのだけれど、その数ある限定物のなかで、ベスト3に入るくらい好きなのが月見バーガーなのだ。 理由は単純に美味しいから。 だから秋になるとまだかなと思ってしまうし、先日道路沿いにあるマクドナルドに月見バーガーの垂れ幕が見えたときには「おお」と思った。 で、早速行ってみたのだ。 久しぶりの月見バーガーはやっぱり美味しかった。 他にも新しい期間限定ものが売られていて、それは次回頼もうと思う。 紫イモパイとかもあって、最近はいろんな新製品を出しているよなと思う。 店によっては、昨年から少し凝ったコーヒーを飲ませるようなところもあるし。
いまでこそ僕はかなりマクドナルド好きなのだけれど、23歳になるまではほとんど食べたことがなかった。ハンバーガーと言えばモス・バーガーという人だったのだ。 それがなぜ変わってしまったのかというと、理由は二つあって、社会人になって最初の転勤先の近くにマクドナルドがやたらとあったことと、日本マクドナルドの創業者藤田田(デンと発音してください)の本を読んだことだ。 そのときの仕事場からは、車で10分圏内になんとマクドナルドが6つもあったのだ。フリースタンディングの店舗に、トイザラスと併設のもの、あるいは大型スーパーの中に入っているもの。いずれにしてもそれだけあったから、ふらりと気軽に入るには便利すぎた。ほとんど自社競合を起こしてしまうだろうというくらいに近くにあったのだ。 また、そのとき読んだ藤田田の本は『勝てば官軍』というある意味ベタなタイトルの本だったのだけれど、日本を代表する経営者の一人であるだけあって、かなりむむむと思わされるものがあった。論理的で合理的。なおかつ人を煙に巻くような豪胆さがあって。こういう人がある種のポリシーと考え方でもって経営している会社なのだから、と興味を持ってしまったのだった(影響されやすいのだ)。 それ以来よくマクドナルドに行くようになった。マクドナルドについての本もたくさん読んだ。業界でも類を見ないと言われているパート・アルバイトについて書かれた本や、どのようにして第二の成長期に入ったのかについて書かれた本、あるいはの平日半額戦略について書かれた本。それらを読んで思うのは、日本マクドナルドがあらゆる意味で徹底しているシステム産業であるということだ。もちろん、強固なシステムがなければあんなにチェーンを増やすことはできないわけだから納得させられてしまうのだけれど、流通業の専門誌なんかでよく特集が組まれたりすることにもうなづける。
個人的には、マクドナルドのポテトができたてなのに当たると嬉しい。 マクドナルドの商品は、冷めてしまうと、劇的に(そう驚くくらい劇的に)美味しくなくなってしまうので。
また、最近のジャスダックへの上場の際に藤田田がインタビューに答えていた、高齢者向けのハンバーガーがどのようなものになるのだろうというのは、密かな楽しみの一つだったりする。 あと、10月から山手線内の店舗が「マックトーキョー」という分類になり、サラダやシナモンロールなんかのメニューが増えるというニュースがあるけれど、それも早く見てみたいなと思う。
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お知らせ
迷惑メールの嵐に負け、携帯電話のアドレスを変えてしまいました。 わかりやすいアドレスで気に入っていたのに…… ま、新しいアドレスもとりあえず希望通りのものに出来たのですけど。
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