Sun Set Days
DiaryINDEX|past|will
言葉って生き物だと思う。 たとえば、そのときどきの流行語というものがあるし、細かい語尾のようなものだって、時代とともに変化してしまう。 個人的には、美しい日本語というものはもちろん好きだし出来得る限り使うように、投げかけるようにしたいなと意識してはいるのだけれど、実際のところ「超○○」などの言葉を使ってしまうことはもちろんある。 人の気持ちは変わるものだし、だったらその人が使っている「言葉」だって当然変わると納得している。
だから、言葉が荒れてしまうことを特別悪いことだとか堕落してしまっているだとかは思わない。現在に生きているのだから、現在の言葉を使うことはときにとてもスムーズなことであると思えたりもする。もしかすると目くじらをたてられてしまうことだってあるのかもしれないけれど、その人だってかつてはその時代の「新しい言葉」を使っていたはずだよとは思ってしまう。 新しい言葉は個人の中に、社会の中に定着して、既知の言葉とすばやく、場合によっては時間をかけて融合していく。 その一方で、ある言葉は一瞬だけ世の中に溢れて、定着することなく消え去っていく。 ずっとその繰り返しなのだ。 だからあと十年もしたら、今度は僕の方が「?」と思ってしまうような言葉がたくさん出てきて、それが当たり前の言葉になってしまうときもくるのだろうと思う。 そのときには、できるだけ受け入れたいなとか思う。 そういうものなんだろうし。
ただ、そんなふうに古くからの言葉と新しい言葉が溢れる世の中で、どういう言葉を選んで発していくのか、ということはものすごく個人的なことで、その人の性質を既定してしまうくらい大事なことであることもまた事実だから、あんまり考えなしに言葉を発することができないと思うのも事実。 言霊という言葉があるように、言葉にはある種の力があるとはやっぱり思うし。 日本には暗黙の了解という言葉があるけれど、やっぱり言葉にされないことを正しく理解することは難しいことで、コミュニケーションの手段としての「言葉」はとても大切なものになる。 人間関係が砂漠のようなもので、言葉が水筒の水のようなもので、砂漠で出会った人同士が自分の水を与え合うのがコミュニケーションだという例えをとるのなら、やっぱりあんまり苦い水を渡すことはできないのだ。 そういう環境での水はとても貴重かつ大切なものだから。
だからこそ難しいよなと思う。 しかも、僕は結構よく喋る方なので(昨晩も1時間以上電話してたし)、口数も言葉の数も加速度的に多くなっていくから、選ぶ言葉も増えていくわけだし。
――――――――――
新しい言葉のなかで、定着せずに消えてしまった流行語には、ときに謎めいたものもある。 たとえば、数年前に流行ったコギャル言葉(←これも死語?)には、シュールかつおもしろいものがいくつかあった。
たとえば、「バチグロ」。
いわゆるガングロ系のさらに上をいく黒さを持つ人のことらしくて、意味は「バッチリ黒い」。 それを略しているのだ。 類義語に「メキグロ(めきめき黒い)」「ソロクロ(そろそろ黒い)」「ユニクロ(ユニクロの服を着ている)」などがあったけれど(?)、いずれにしても結構おもしろい。
また、「MM5」という言葉もあった。
意味は「まじで むかつく 5秒前」で、出自は広末涼子の歌っていた「マジで恋する5秒前」にひっかけたもの。 どちらも、どうして5秒前だとわかるのかが謎なのだけれど、近い将来有望な言語学者によって解明されることを期待している。
さらに「チョベリグ」とか「チョベリバ」とかいう言葉もあった。
これは有名だけれど、「超ベリーグッド」と「超ベリーバッド」の略で、超という意味が二回重ねられているのだけれど、その理由はやっぱりよくわからない。 当時ふざけて友人と「チョベリオ」という言葉をつくっていたことを思い出した。 意味は「超ベリー夫」で、とてもとても夫……つまり愛妻家のマイホームパパのことなんだけれど、絶対に流行らなそうだし書いていて恥ずかしいよ……
いずれにしても、そういう流行語を含めて、言葉って面白いのは事実だと思う。 コミュニケーションの道具としても、自分の考えをまとめる道具としても、言葉にすることでそれはある種の意味を持ってしまうから、時間をかけて自分なりの言葉をちゃんと選んでいきたいなとは思う。
―――――――――
お知らせ
Text Sun Set では「あなたのまわりの流行語」を募集しています(嘘)。
|