Sun Set Days
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最近はまた仕事量が増えてきたのだけれど、今日重い仕事がまた一つ増えた。 来期の僕の所属するチームの予算を作ること。 書類上は上司の管轄なのだけれど、今年は実際に作るのは僕なので、いよいよ来たかという感じ。 チームの予算を作るのははじめてなので、とても興味深い仕事になるんじゃないかなと、結構楽しみにしていたりする。 予算案を作るということは、個人的には来期の流れをある程度以上把握していくこと、シュミレーションしていくことだと思うので、来年の仕事やその流れにもきっと(あるいはおそらく)役に立つのだろうし。 他の仕事の合間をぬってやっていく形になるので、できるだけ集中できる時間を作ろうと意識してみようと思う。 と言うのも、先日読んだドラッカーの本にも書いていたこの部分が大切だと思うから(再引用)、
次に、時間を管理すべく、自分の時間を奪おうとする非生産的な要求を退ける。そして最後に、その結果得られた時間を大きくまとめる。すなわち、時間を記録し、管理し、まとめるという三つの段階が、成果をあげるための時間管理の基本となる。(119ページ)
この後で、細切れの時間をいくら細切れのまま確保しても、成果を得られるような仕事の効率は決して上がらないというような内容に続いていくのだけれど、確かにその通りだと思う。ある種の仕事に取り組もうと思ったら、どうしたってまとまった時間が必要になってくるわけだし。 けれども、実際の日々の業務はそうはいかないことが多い。たとえば今日も、午前中をある仕事に費やそうという計画でいたのだけれど、ふたを開けてみると急遽届いていたメールの処理絡みで午前中一杯が潰れてしまった。そういうのって、別によくあることだし、その後も様々なところから様々な連絡がきたり依頼がきたり、問題が持ち上がったりして時間がどんどん細切れになっていってしまったりした。そういうのって、一人で仕事をしているわけではないのだから、当たり前のことだ。日常的によくあること。 そういうときにも、どんどん細切れになってしまいがちの時間をなんとかずらしたりしてある程度の時間のかたまりを作ることは大切なことだと思う。無理矢理にでも、ちょっとデフラグをするみたいな感覚で。今日の場合はそうして時間を繋ぎ合わせて、結局は予定していた分の仕事は終了することができたのだけれど(帰りは遅くなったのだけれど)。 いずれにしても、大切なのは仕事の棚卸のようなものを常にしてみることなのだろうなとは思う。 いましている仕事のすべてが本当に必要なのだろうか? しなくてもいいもの、やり方を変えたほうがいいものはないだろうか? と考え続けること。そういうことって、きっとたくさんあるはず。大切なのは、考えること。 それを口癖のように自分に言い聞かせていこうと、いつも思う。
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僕の部屋の近くにはコンビニが乱立しているので、たとえば飲料の品揃えでもチェーン毎に結構異なっていることがわかる。たとえば、アルミ缶の聞茶の店もあれば、ペットボトルの聞茶の店もあるというように。 しかも、同じチェーン店でも微妙に違っていたりすることがある。たとえば、家のすぐ近く(徒歩2分)にはファミリーマートがあって、歩いて10分くらいのところにももう1軒ファミリーマートがある。その2軒の品揃えは、やっぱり同じではないのだ。同じチェーンで、それだけ近くにあっても、やっぱり立地が異なるということなのだろうなと思う。 夜にちょっと歩きたいときには、わざとその遠い方のファミリーマートに行くことにしている。片道10分かかるので、往復で買物の時間も入れると30分くらいかかることになるのだ。普段、僕はものすごく早足なのだけれど、そういうときには(意識して)結構のんびりと歩く。最近は寒いので上に薄手のものを羽織っていくことが多いのだけれど、行って帰ってくるといまくらいの時期だとまだ身体が暖かくなっていたりする。 何度も書いてはいるのだけれど、やっぱり歩くことは好きだ。とりわけ夜の散歩はかなり好きだ。歩きながら見る夜の町は、いつもと変わらないはずなのにより細部に目が行き届くような気がする。 たとえば、通り道にある写真館に飾ってある写真――着物の女の人(美人)や、おじいちゃんを中心にした幸せそうな三世代家族、びしっと決めたお兄さん――は夜の散歩中に見るときのほうが、よりいきいきとよく撮れているように見えてしまう。他にも、坂道の途中に放置されている自転車の物悲しさが増すのも夜だし、終日営業のファミリーレストランを通り過ぎるときには、深夜でもそれなりにお客がいることに驚いてしまう。 夜の散歩をしていると、昔の人は本当に夜になるとすぐに眠っていたのだろうかとちょっとだけ思ってしまう。もちろん、生活時間帯が深夜にずれ込んでいるのは現代特有のことではあるのだろう。けれども、昔の人だって、きっと夜更かししてしまいがちな人はいたと思うのだ。 そしてそういう人たちは、いまよりもきっと感覚的に長かったはずのそれぞれの夜を、いったいどんな風にして過ごしたのだろうと考えてしまう。
それともうひとつ思うことは、よく言われる25時とか、26時という言い方のこと。 いちいち説明するまでもないのだけれど、午前1時や2時を指す言葉だ。「警視庁25時」というように使われる。あの言葉って、結構不思議な響きを持っている。あんまりそういうのに慣れてしまうと、世界には本当に25時とか26時というのが存在する場所があるのだという気になってくるから不思議だ。その世界では夜は僕らの世界よりもちょっとだけ、そうたとえば2時間だけ長くて、その後で0時をむかえるのだ。だから一日は26時間。 長い夜を泳ぐ人たちのための時間軸。 いまの時間の計り方が絶対ではないのだし、そう遠くない未来には、そんな時間軸も”あり”になってしまうのかもしれない。
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お知らせ
26時とかの呼び方は、徹夜をしているときによりしっくりくるような。
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