Sun Set Days
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2001年10月24日(水) 最初で最後のテント

 小学校低学年の頃、両親がテントを買ってきた。
 うちは両親と僕と妹の4人家族なので、5〜6人用のテント。
 外側が水色のビニールで、内側が黄色になっているツートンカラーのテントだ。
 その年から、毎年夏休みのキャンプは、我が家の恒例行事となった。
 毎年お盆前後になると、車にテントを詰め込んで、北海道を回るのだ。
 ある年はサロマ湖や阿寒湖、摩周湖などの湖をめぐり、またある年にはフェリーに乗って道北の利尻・礼文島に行き、またある年には道南函館に、数年越しで北海道のメジャーな観光地をあらかた見て回った。
 その間、テントは毎年大活躍だった。旅行の日程の中にはホテルに宿泊する日もあったのだけれど、基本的には1泊はキャンプをした。車のトランクに、いつもテントを入れて出発した。
 もちろん、何年も使っていくなかで、そのテントも段々とさびれていった。支柱を形成するパイプはさび付き、ビニールにはふきとってもとることのできない汚れが致命的な影のようにこびりついて、組み立ててみるとまるでもう何年も生きている老犬のようにすら見えた。
 そして僕らにはテントを介した思い出が増えていった。

 たとえば、洞爺湖畔でキャンプをしていたときには、隣でテントを張っていた男女4人組の女の人が一人溺れてしまい、僕の父親やその辺にテントを張っていた人たちみんなが介抱を手伝っていたし(お礼にチップスターをもらった)、利尻島でキャンプをしたときには、北海道では珍しいくらいの暴風雨のなかでのキャンプになった(飛ばされてしまうかと思うような風だったのに、テントはしっかりと夜を耐え抜いた。けれど、なかなか寝付かれなかった)。
 幾つかのキャンプ場では夜に花火をしたし、テントのすぐ前にキャンピング・セットを用意して、ジンギスカンやカレーライスを食べた。そのときには携帯用ラジオからは巨人戦の実況が流れていた。
 点はやがて線となり、その記憶はゆっくりと面になっていく。
 だからいまでも、僕はそのテントの色も形も、それからそれにまつわる様々な些細な思い出もちゃんと覚えている。思い返すことができる。

 そんな夏の旅行中にはいろいろな情景があった。その大半は他愛のないものばかりだ。
 たとえば、車の中で流れていた高校野球の実況中継のことであるとか、窓の外を流れていく雄大な景色であるとか、長距離ドライブということで靴を脱いで、後部座席で眠っていたこととか。帰りに渋滞に巻き込まれたときに、ラジオでやけに懐かしいグループサウンズばかりが流れていたこととか、途中でコンビニに入ったときに、どさくさに紛れて普段は買ってもらえないマンガや雑誌を買ってもらったこととか、知らない町を幾つも眺めているのが楽しかったこととか、そういう他愛のないことをたくさん覚えている。
 その家族のキャンプは、北海道から出なかったし、たとえば道東地方なんかは何度も行くことになった。それでも、逆にそうだったからこそ、同じ観光地を数年をおいて再訪するという楽しみも得る事ができたのだった。ある観光地を車で通ったときに、小学校の頃にも来たことがあるんだよと言われる。そうだっけと答える。けれど、なんとなく記憶の片隅にそれが残っている。そしてそう言えばこれと同じ景色を見たことがあるかもしれないとか、この小さな町で確かガソリンを入れて、そのスタンドのお姉さん(当時僕は小学生だったから、そう見えた)がとても感じのよい人だったという、そのときまで忘れていたような記憶が蘇ってくるのだった。

 そのテントはいまはもうない。
 テントの最後は、僕が大学生だったときのことだ。
 大学4年間を通じて、僕抜きでも実施されていた夏のキャンプに参加したのは一度だけだった。その年はやっぱり道東を回った。
 朝から天気が悪くて、夕方から雨が降り始めた。僕らは早めに食事を済ませると、早々とテントの中に入った。
 テントのなかで、僕は小さな蛍光灯タイプの懐中電灯で照らして雑誌を読んでいた。
 テントを叩く雨の音が終わりなく聴こえている。
 風が強かった。いつの間にか眠っていた。風鳴りの音で、深夜に何度か目を覚ました。
 翌朝になっても、風は相変わらず強いままだった。
 空は曇天で、低いところを帯状の雲がやけに早く流れていた。遠く海上は幾重にも灰色の雲が連なっている。
 そのキャンプ場は海に面した草原にあって、なだらかな斜面が続いていた。海側は崖になっていて、近づくことができないように低い柵がはりめぐらされている。激しい風が吹いていて、その浅緑色の斜面では、色とりどりのテントが寒さに身を縮ませるように震えていた。
 朝はテントを片付ける時間だ。
 僕らも朝食をとったあと、他のキャンパーたちと同じように片付けをはじめた。父親と一緒にもうすでに慣れてしまったやり方で片付け始める。
 そのとき、一際強い風が吹いた。ちょうど父親と一緒に外そうとしていたテントのビニールが僕の足に絡まった。風の勢いにテントごと引きずられそうになり、父親がやってきて、僕の足に絡まったビニールを引き剥がしてくれた。
 その刹那、テントを覆っていたビニールは一気に風に運ばれた。
 テントは斜面をぐるぐると風を受けて転がると、途中から風に乗って浮かび上がり、そのまま勢いを緩めずに、柵も越えて、眼下の崖へと、海へと消えていった。ばさばさというやけに大きな音とともに。
 家族みんながそれを見ていた。近くのテントの人たちもそれを見ていた。
 テントは飛んでいってしまった。
 後には土台と、骨のようになっている支柱が残された。

 それが、10年以上もった我が家のテントの最後だった。
 崖の下でどうなっているのかは柵があって近づくことができなかったから見ることができなかった。
 ただ、それは本当に一瞬の出来事だったのだ。
 あっという間の出来事で、ただ見ていることしかできなかった。
 ちょっとの間、僕らは無言だった。
 けれども、それから気を取り直したように、まあもう使い倒したしなという話が出て、寿命だったんだよとまるでテントに命があるかのように話していた。
 その何気ない言葉がずっと耳に残っていた。
 だから、後になって僕が思ったのは、僕らのテントが、最後にテントの墓場にいったのだろうということだ。
 象が最後に誰に知られることもなく象の墓場に向かうように、テントは自らの寿命を察して、ちゃんとテントの墓場に向かっていったのだということ。
 もちろん、そんなものはどこにもないのかもしれない。テントはただ、崖下の海に浮かんでいただけなのかもしれない。やがて海の底に沈んでいっただけなのかもしれない。
 けれども、最後の朝、僕の足に絡み付いたあと、それから躊躇もなく転がっていったテントのビニールには、ある種の潔さすら感じられ、そういう最後の地に向かうように見えてならなかったのだ。転がったあと浮かび上がるときには、まるで飛行機が離陸するときのようにとても鮮やかだったし。
 その朝、父親は気を取り直して残された支柱を片付けると、車のトランクにしまいこんでいた。僕もそれを手伝った。
 車に乗り込んでそのキャンプ場を出発する際、僕は最後に、もう一度海の方を見た。
 テントの姿はどこにもなかった。
 ただ強風のため地面にしがみつくように揺れる草原と、その先に鉛色の海が見えるだけだった。


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 その後、僕の家では新しいテントは買っていない。
 子供(僕と妹)が大きくなったことが主な理由だ。夏の旅行には相変わらず(僕はほとんど参加できないけれど)行ってはいるのだけれど、そういうときにはホテルなどに宿泊するようになっている。
 たぶん、これからもテントを買うことはないと思う。
 だから、僕らの家族のテントは、それが最初で最後のものだったということになる。
 それで、よいのだと思う。
 そのテントには、この最後の風変わりな別れ方など、そのテント人生をちゃんと全うしてくれたというような感覚のようなものが個人的にとても強くあるのだ。だからあのテント以外の僕ら4人のテント、というのはちょっと考えられないし。
 テントは何年にも及んだ夏の旅行を見続けていた。それにまつわるささやかな記憶がたくさんある。他愛のない記憶を共有している数が多ければ多いほど、その関係はより強く編まれていくものなんだろうなと思う。
 猫が100年生きると猫又になるように、物もある程度以上使い続けると、ある種の精霊のような感覚が出てくるのじゃないかと思ってしまうのは、ちょっと思い入れが強すぎるのだろうか。
 でも古い家なんかの場合には、きっと性格めいたものが付与されているだろうし。もしかしたら、テントだってそうかもしれない。
 考えすぎなのかもしれないけれど。


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 今日は代休、これから髪を切りにいってきます。


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