Sun Set Days
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2001年10月28日(日) 違うホーム

 昔、駅の時刻掲示板を見るのが好きだと話している人がいた。
 大抵の場合改札口の上にぶらさがっている、それぞれの路線の次とその次の電車の行き先と時刻を知らせているやつのことだ。
 普段は山手線とか、京浜東北線だとかを使うのに、それ以外の路線が気になってしまうと話していた。
 いやなことがあった夜なんかに、随分と遠い街が行き先になっているのを見て、いいよなと思ってしまうそうなのだ。
 実際に行くことはできなくても。
 確かに、そういう日常からの逸脱(場合によっては逃避)というものは結構魅力的だ。
 たとえば、大宮に帰らなければならないサラリーマンが、なんとなく時刻掲示板を見ているうちに東海道線に乗りこんで衝動的に小田原まで行ってしまう。
 そして、甘い後悔の余韻を噛み締めながら、思いがけない開放感を味わいながら、随分と暗くなってしまった小田原駅に降り立つのだ。
 当日だからホテルには泊まれないかもしれない。すぐに最終電車でとりあえず東京にまで戻るのかもしれない。自分の突発的な行動に狼狽して、どうしたらいいかわからなくなってしまうかもしれない。携帯電話とか、公衆電話で家族に小田原にきてしまったことを伝えるのかもしれない。伝えられないのかもしれない。結局24時間営業の健康ランドで夜を過ごすのかもしれない。

 そんな想像に駆り立てられる。
 けれども、彼は改札口を抜けたところでそういう誘惑にかられることがあっても、実際にはいつもと同じ路線に乗り込むだろう。
 ぎゅうぎゅうに混みあった埼京線で吊り革につかまりながら、押し合いへし合いしながら、いつもの家路を急ぐことだろう。

 選択肢なんてきっと無数にある。
 越えてしまえば、それらの心理的な壁なんかきっととても低い。
 ただ違うホームを選ぶだけだ。
 ただ反対方向に向かうだけだ。

 けれど、彼はやっぱりいつもと同じ路線に乗り込んでしまう。
 家族だとか、帰る部屋だとか、そういうしがらみのようなものは柔らかな縛り方ではあっても、やっぱりとても力強く人をからめとっていくものだから。そして、そういうものからの逸脱を願いつつも、からめとられているほうが、人はきっと肩の力を抜くことができるものなのだと思うし。

 そして、自分を納得させようとするなかに幸福感が生まれるし、逃避を避け得たことについての軽い安堵と自嘲がある。
 1日1日は全然違う。
 けれど、振り返ってみると同じような日々にまとめてしまおうとするのは、ほかならぬ自分の心であるわけだ。
 その方が心休まるから。
 日々はずっと続いてきたし、これからもずっと続くと錯覚しているから。

 だから、そういう日常の枠を蹴破っていく人たちは、きっとまぶしく(あやうく)見えるのだろう。
 そういう人たちって確かに少なくはあるけれどいるわけだし。
 基本的にアウトローな、奔放な人たち。
 けれども、同じ日常をおくっているという錯覚も、自由奔放な人生と同じくらい、大切なものではあると思うのだけれど。
 あとは人が、どちら側を自分で選び取るのかの話。
 何かの本にかかれていたフレーズで言えば、「人は自分が思うような自分」にしかなれないわけだし。


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 お知らせ

 僕の知り合いには、そのつもりがないのに反対方向の電車に乗ってしまう人もいます。
 致命的にないらしい方向感覚を少しは鍛えてもらいたいものです。


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